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再考・市民のために…
数ヵ月前,読者から一通のEメールをいただいた。要約すると以下のような内容になる。 『38歳の中学校教員です。職業上,同和問題に深く接し,深く考えさせられ,何とかなくしていかなければならない問題に出会うことが数多くあります。被差別部落の人々は過去において,さまざまな芸能に携わり,楽器の製作に携わり,差別を受けながらも,現在の日本の芸能を根底から支えてきた人々であると,わずかな勉強(4〜5年)の中で,そう理解してきたつもりです。 要約したとはいえ,この教師の真摯で情熱ある姿勢は,読者にも伝わるだろう。何度かメールのやり取りをしているので,実際に彼から寄せられた文章はかなりの量になる。その中で『こうした話題がメディアにおいて,それも音楽誌で取り上げられるのは,相当に難しいのでは』と,彼は危惧する。私と編集者を気づかっての優しい心配。当然いい加減なもの,誹謗中傷であるなら問題も生じ得るが,そんなものを私は述べたいわけもなく,この真摯なメールについての解答ならば,自然,真摯な文章となるはずだ。一応,担当編集者に意見を求めたが,問題ないとの極めて常識的な反応だ。 私はすぐ奈良県の水平社博物館へ取材に行った。同和問題について不勉強な私でも,理解しやすく,興味を持って接することのできる立体的でヴィヴィッド(体温の生々しさすら感じられるよう)な展示。専門博物館にありがちな部外者への排他的で高圧的,権威主義的空気は微塵もない。大変有意義な体験ができた。また教師からは参考になる書籍やホームページなども紹介いただき,大いに勉強になった。そうこうする間に半年ほどが過ぎてしまった。 さて,メール文中にある“タクシーの運転手さん”の話とは,第17回『市民の為に …』(98年3月号)のこと。手元にバックナンバーが揃っている読者の方が稀だろう。3年前はスペースの関係で書ききれなかったことも交え,そこに新たに彼への解答を表わしていこうと思う。 ・ ・ 初めてヨーロッパ・ツアーをやった時,その観客の反応はもちろんだが,それ以上に現地の関係者の対応,私への接し方に驚かされた。ロックン・ロール・ムービーというのがある。ショーのあとは毎晩,飲めや歌えのパーティで,アーティストはわがまま放題,ホテルやツアー・バスの中で暴れまくり,というような類いだ。ああいうのは,映画の中だけかと思っていたが,現実のことだった。 テレビ,ビデオに冷蔵庫,テーブル,ソファ・セットにベッドまで用意された豪華な大形バスで演奏会場に行く。会場支配人やローカル・プロモーターたちがすでにパーティの準備をして待っている。ハノーバーなどでは喜ばそうと,わざわざ寿司(巻き寿司もあった!)をテーブルいっぱいに用意してくれて,とても嬉しく感じた(しかし,超ウルトラ激マズだった)。まずは歓迎会といった感じなのだが,その最中にプロモーターが『ところで食事はリハのあとにしますか? 本番のあとにしますか?』と聞いてくる。最初はわけがわからなかったが,その時口にしていたのはディナーではなく,大量のオードブルみたいなものだったのだ。当然そんなにすぐは食えないので,『本番のあとで』と答える。そして本番後,楽屋へ行くと長いテーブルにズラリと料理が並ぶ。なぜだか知らない人がたくさんウロウロしている。多い時は何10人といて,その中に大概ブロンドでおっぱいボヨヨンの,絵に描いたようなセクシー系ロックン・ロールネェちゃんも何人かいる。クネクネしながら私の隣に座ってくる。 ここで,はっきりいっておくが,私は決して,ヨーロッパで人気者というわけではないのだ。海外においても日本と同様に,よほどのマニアしかその名前すら知らないような,変態ナゾナゾ星人なのだ。最もビッグ・ネームなら,セキュリティがしっかりしていて,知らぬ間にクネクネネェちゃんが混ざってたりはしない。話を聞いてみると,どうやら会場つきのグルーピーらしい。成り行きに任せたりしたら,どんな恐ろしい目に合うことか。私がビビリながら,通らぬ喉に料理を詰め込んでいると,プロモーターがやってきた。『それじゃ,食事へ行きましょうか?』最初のツアーでもっともビビッタひと言だっ た。
明らかに過剰と思える接待,山ほどの料理,酒,女,花。 これを文化の違いと言うのだろうか?日本でも,これほどでないにしろ接待を受けることがある。しかし,欧米と日本とでは量的な違いだけでなく,質的な違いもそこに感じられる。前者が文字どおり,異国の音楽家を囲んでの“歓迎会”であるのに対し,後者は音楽家を前に置いての“打ち上げ”と称する飲み会といった印象を受けることが多い。 私は酒をまったく飲まない。そのことを告げると,日本では多くの場合,まず驚かれ,次につまらなそうな顔さえされる。『少しぐらいはいけるでしょ』とニヤニヤしながら,断わる私に無理にグラスを持たせようとする。それでも拒むと『飲まなきゃつまらないでしょ』と言い放つ。“つまらなく”感じるのは私ではなく,場の参加者なのだろう。私は参加者を喜ばせるために飲まなければならないのか? 一体歓迎会とは,どういう目的で行われているのか? 日本でこうした場に接するたびに,私は自分が桜になった気になる。花見の宴の桜の木だ。花見と称されるが,実際は桜を愛でるわけではなく,参加者が酒を飲むための口実として使われる桜の木。非日常的酒宴を享楽するための免罪符としてのシンボルにすぎぬ存在だ。 その一方,欧米で酒を強要されたことは一度もない。私がコーヒーが好きだ告げると,一生懸命においしいコーヒーを用意してくれる。かつて,ドイツのケルンでこのような体験をした。あるホテルにチェック・インして部屋に入ると,テーブルの上に手紙がある。このホテルの支配人からのものだ。『今夜はケルン市民に良い演奏を聴かせてやって下さい…。これはプレゼントです云々…。』と書いてあり,素敵な腕時計が。また,レストランや商店でも,『あら音楽家なの? じゃあ,サービスしとくわ』と言って,値引きしてくれたり,ウィンドウからきれいなブローチを取り出してプレゼントしてくれたオバさんもいた。ある国の入国審査の時,私の入国目的を聞いて『良い音楽を!!』と勢い良くスタンプを押してくれた係官もいた。あげればキリがないが,中でもひと際印象に残っているのが,楽器を持ってタクシーに乗った時のこと。その運転手は私に『音楽家の方ですか? 市民のために良い音楽を…』と言ったのだ。私は強烈に感動した。たったひと言,時間にして数秒であるが,私にとっては生涯忘れ得ぬ,数秒間の歓迎会だ。いずれの人々も,私の演奏活動と直接の利害関係を持たない。いわば通りがかりの人々の言葉なのだ。 日本において私が通りがかりの人々(タクシーの運転手に限らず)から言われる最も多い言葉は,『いいよね。好きなことでメシが食えて…』である。この言葉の違いは一体どこからくるのか?歓迎会の違いはなぜなのか? 中世,京都鴨川の河原には,たび重なる戦火や飢饉から逃れようと,各地から難民が流入し,今日のホームレス生活を余儀なくされた。耕作困難な彼の地において,難民の生活の資は自然,非合法なものや,通常,人が嫌がってしたがらないものが中心となっていく。窃盗,売春,死体処理,死んだ牛馬の皮革加工などだ。その中でさまざまな技術や芸能を鍛えて,河原でパフォーマンスを演じる芸能民が現われた。室町期の文化は一面において,彼らの文化であったとも言えるだろう。そして彼らは河原者,あるいは河原乞食と言われた。永六輔氏によると,歌舞伎役者たちが,京都の四条河原で興行したことから,河原乞食という蔑称がついたという。この歌舞伎を創始した出雲の阿国も当時は被差別者であり,能,狂言,文楽などの今日の伝統芸能とされるものの多くが,他に職業を選べなかった被差別民の生業として始まり,発展してきたのだ。 そして日本では現代でも河原乞食という言葉が意識の底辺に生きている。そろそろ学生においては就職活動の始まる時期だが,親に音楽で生きていこうと思うと言ったら,大概の場合は有無をも言わさず否定される。『何のために大学までやったと思ってるの!』,答えは当然,勉強するため,のはずだが,親はもちろん社会の一般的認識も,より良い就職先につくため,と考える。『バカなことを言ってないで,キチンとした仕事に就きなさい!』 つまり,音楽家などというものは,キチンとした職業ではなく,社会からドロップ・アウトした者であり,村意識の外側,つまり河原という別空間にいて,とてもじゃないが同じ村落生活者としては,認めたくない存在なのだ。前述の『いいよね。好きなことでメシが食えて…』という言葉は,決して無邪気な羨望の言葉などではない。『私が属して汗水をたらす現実的生活空間の外側にオマエはいるのだ』というのと同義であり,加えて言外に,『オマエが食えているのはラッキーなことだ。社会のお情けで食えているのだ』という,残酷な呪いのニュアンスさえ含んで響く。 私は今,国内ツアーをしている最中だ。まだ20ヵ所弱を回ったところで,あと40ヵ所ぐらい残っているのだが,すでにもう何度も『いいよね。好きなことでメシが食えて…』と耳にした。あと何回,言われ続けるのか。
それではなぜ,芸能民は現実的生活空間の外側に追いやられ,“河原乞食”などという蔑称を受けねばならなかったのか。いろいろと調べてみたが,これに関しては非常に多種多様な説があり,このことが問題の複雑さと同時に,残された歴史的資料の少なさを示している。いうなれば,“私はこう考える”という程度の次元での立説がほとんどなのだ。それらを大量に紹介するよりも,本稿執筆の契機である“38歳の中学校教員”氏の手紙にも,『あなたの御考えを御聞かせ下さい』とあることだし,以下に“あくまでも”の但し書きを加えて,私個人の考えを述べることにする。 古来(現代もなお)日本人は共同体の中での異質な存在を非常に嫌い,排除しようとする。集団的農耕をベースとする日本的なシステムにおいては,村八分という処置が十分すぎるほどに“恐怖”として機能し,常識や世間体といった秩序が乱れるのを防いできたほどだ。島流しの刑もそうだが,共同体から排除されることは,日本人にとって物理的にも精神的にも数代あとにまで実影響を及ぼす苦難なのだ(現代においては,ある特定宗教団体の信者の子供であるということで,地域社会からその就学を拒まれる児童の存在が適例するだろう)。これは西部開拓時代の映画(西部劇)『シェーン』などに見られるように,いち家族単位で人跡未踏の地を切り拓き,悪条件を克服していく“フロンティア・スピリット”を尊ぶ欧米的個人主義価値観の対極にある。 日本では共同体の秩序の乱れを“ケガレ”と考えてきた。古くは900年代の延喜式に人の生死,妊娠,流産,失火などがケガレとして書かれている。人の死によって共同体の秩序が乱れた時,遺骸を現実的生活空間の外側へ移送するのが“野辺送り”であり,ケガレを払い浄めること(触穢/しょくえ)で共同体の秩序が回復し得るとしてきた。しかし,こうした触穢の従事者やそのためのフィールド(墓地,火葬場など)をも,ケガレに接触し,ケガレを持っていくのだからと考え,ケガレそのものと同様に忌み嫌い,排除しようとする。ここでケガレについて,少々の説明を加えておこう。 文科人類学の波平恵美子氏によれば,儀礼を分析するための理論的枠として用いるべきとしながら,“ハレ”→清浄性・神聖性を示す,“ケ”→日常性・世俗性を示す,“ケガレ”→不浄性を示す,というように分類説明している。フェイズ・シフト可能な“聖・俗・穢”の3つの位相が,生活意識の根幹にあると言える。また民俗学の桜井徳太郎氏は,特にケについて,ケの日常生活においてエネルギーが枯渇した状態をケガレ,ケを持続させるために必要なエネルギーを補充する行為をハレの行事として説明している。現代でも“この祭りのために364日間,働いてきたんだ”という情熱的(エネルギッシュ)な言葉は死語ではない。どんなに衣食住の基本様式までもが変化しようとも,祭りや正月,節分などのイベントが捨て去られなかったのは,我々がこうしたエネルギー補充行為を何よりも必要としている証と言えるだろう。 そして,芸能民はケガレを払い,ケをハレへと転じ,祝祭空間を創出する。言うなれば“ケガレ除去システム”,“祝祭空間創出システム”として,必要な事態が生じた時のみ,共同体から招かれる存在であった。今でもTVの元旦三が日には,やたら演芸番組が増え,芸人たちが『おめでとうございますっ!』と狂騒的に連呼させられている演出をよく目にするし,地方自治体主催の祭事に芸能ショーが不可欠であることからも,このシステムが機能し続けていることが実感できる。 祝祭空間は永くは必要とされない。再び日常のケへと戻る時,芸能民もまた現実的生活空間の外へと,あたかも除去したケガレを抱くかのようにして,出ていかねばならない。先ほどまでの狂騒がウソのように,共同体は静かに安定した日常へと速やかなフェイズ・シフトを実行する。もう,そこに“ケガレ除去システム”も“祝祭空間創出システム”も必要なく,それどころか,異質な存在の混入はせっかくのケを乱す要因となるからと,近づくことすら厭がられる。河原乞食という蔑称は,単純に河原という居住地と,乞食という職種を表わしただけでなく,現実的生活空間の外(現代ならばテレビや雑誌などメディアの向こう側)にいて,共同体を安定して運営していくシステムに寄生する存在という意味だ。共同体のお情けで食わしてやってるという意識は,彼らを河原に追い出しながらも,常に監視,管理しようとする。 テレビのワイド・ショーの中心は芸能民のスキャンダルだ。ある有名女優の息子が不祥事を起こしたとして,その母親である彼女自身までが批判的に報じられ,実質的に彼女の演技力とは何ら関係ないのに,仕事が見事に減っていく。まったく孫子の代まで伝播するケガレ思想の噴出だ。一般的な会社員なら何ともないが,たまたまお笑い芸人であったということで,賭け麻雀や軽い交通違反が大きく報じられ,『芸人のくせに生意気だ』などとののしられ,芸の質は変わっていないのに仕事が減らされる。ケガレに接触し,ケガレを除去する装置としての存在だから,現代もなお,必要以上の潔癖さでもって,監視,管理されているという実例と言えるだろう。
“祝祭空間創出システム”としての芸能民が,より強力にその機能を発揮するための条件として,より多くの共同体構成員によってその存在,芸が認知されていること,つまり“有名人”であることが求められる。芸の種,質とは無関係に,有名であればあるほど,創出される祝祭空間は大きなものになる。 祝祭空間創出の必須は“集団ヒステリー”だ。祭りの“ワッショイ!”はくり返し叫ぶたびに,強い上昇感をもって集団ヒステリーを煽るトランス・キーワードなのだ。この爆発的エネルギーの招来には,共同体構成員たちの“単一的反応”が必要条件であり,かつ美徳とされる。これを乱す者,例えばひとりだけ酒を拒む者,ひとりだけ踊らない者などは,反逆的な不道徳者のような扱いさえ受けかねない。個別の情緒的反応(主張),いわゆるオリジナリティは,ここでは邪魔な悪徳なのだ。 <祝祭空間創出>→<集団ヒステリー>→<単一的反応>,この流れにおいて芸能民が共同体に提供すべきは,構成員全員が輪になって踊る,歌う,笑うためのいわば“機能性芸能”なのだ。単一的反応を導くためには,その芸は既知であること,より多数が馴染んでいることが重要となる。前述の構成員におけるオリジナリティの悪徳化以上に,芸能民が非既知的表現を行なうことは許されない。 お笑い演芸を例とするならこうなる。馴染みのない芸人では笑わないのに,有名漫才コンビならお辞儀をしただけで笑いが起こる,この機械的反射。部外者には,まったくもってくだらないのに,その限られた集団のみにおいては名落語家以上に面白く感じられるクラスのひょうきん者,この排他的選択条件反射。そう,重要なのは常に,どれだけ大きな祝祭空間が創出されるか,つまり,どれだけ強力な集団ヒステリーが生じるか,重ねてつまり,どれだけ機械的な単一的反応が示されるのか,ということなのだ。機能性芸能においては,いかなる“表現”がなされたかは,まったくもって問題ではない。オリジナリティよりもポピュラリティが問われるのだ。 一方,未知な表現に出くわしてしまった時の反応,これはオバサンなどの反応がティピカルなのだが,戸惑い,ためらいながらも,知らないのは自分が無知だからなのか,それともこの芸人が無名だからなのか,この場合の適切な反応は如何したものなのか,ああ,この居心地の悪さの責任所在は何処に求むべきなのか,と思い焦らされ,かくて隣人に尋ねる。『この人,有名なの?』反応の仕方があらかじめ共同体の共通認識として,取り決められていない局面に接してしまう時,祝祭空間は一歩遠ざかる。安心を求めて,答えが得られるまで彼女は尋ね続けるだろう。『ねぇ,有名な人?』彼女自身が個人的に価値を判断してはならないのだ。この国においては,価値の設定は個人に帰されることはなく,常に共同体全体に委ねられるのだ。今日的には,活字や電波メディアで取り上げられるのが,共同体による認知と同義になる。隣人が『テレビによく出てる芸人だよ』と答えると,途端に彼女は安心して笑い始めるのだ。 村祭りの昔からパラパラの今日まで,皆とぴったり同じ踊りを踊れるのが,構成員の喜びであり,また,ある歌手のある曲のキメで一斉にバスタオルを宙空へと投げる瞬間が,構成員にとってのエクスタシーなのは,根底にこうしたケガレ思想を原動力とする日本固有のシステムがあるからと私は考える。そして,芸能民が提供すべきは単一的反応を導く機能性芸能,この全体認識の前に,演歌の大御所の言葉『お客様は神様です』が,美しいと誉められる。客が金を払って,その分ステージで努力する関係は,本来フィフティ・フィフティで当たり前のはず。日本以外の国では前述の名言も,まず過剰な謙譲の言葉にしか響かない。しかし,この国では真実なのだ。かつてのタモリ氏の『私は大衆のオモチャだ』という言葉は,自虐的ギャグのように発せられたが,私は前述の名言についての逆命題であり,芸能民による深い真実の告発ととらえる。これらふたつの言葉の合成はこのようになる。“共同体が生殺を決定し,芸能民はそれに従順する”。 これが,少なくとも中世以前から現代にいたるまで保守され続けているところの,共同体と芸能民との間柄についての厳しいルールなのだ。そして,わがままな神様は言う。『何か面白いことを言ってみろ』,『何かモノマネをやれ』,『歌ってみせろ』,『面白くないぞ』,『そんな曲は知らんぞ』,『芸人のくせに生意気だ』,そして,『いいよね,好きなことでメシが食えて……』。一般的な商店主と客,医者と患者,弁護士と相談者などでのような関係は望めない。なぜなら,これらはあくまで同じ共同体内での関係であり,一方,芸能民と客との関係は,共同体とその外側のケガレ空間(河原)の寄生存在(乞食)との主従意識を伴った関係だからだ。 かくして,河原乞食という蔑称を生み出したケガレ思想が,日本文化と日本の芸術家に及ぼしている影響について考察し,稿を進める私は,恐ろしい結論に帰着した。“日本は芸術を必要としていない。日本が必要としているのは機能性芸能なのだ”。
新たな概念が現われる時,それを言い表わすための新たな名前(単語)が必要となる。以前の類似概念との差異を明確にするための必然だ。ということは,逆にその単語が使われるようになる以前には,そのような概念が存在していなかったということを意味する。 では,“芸術”という単語が生まれたのは,いつなのか。これが実は明治期になってからなのだ。意外な歴史のなさに少々の驚きがあるだろう。それも大衆の間から自発的に,この新概念が生まれ出たわけではない。開国後,盛んに輸入された外来の概念のひとつ,“liberal art”の翻訳語として思想家,西周(にし・あまね,1829-1897)により作られた言葉なのだ。一説に古代中国に同様の単語があり,西周がそれを流用したとあるが,いずれにしろ当時(明治20年前後と言われる)の人々には耳慣れぬ新しい概念として響いたに違いない。“芸”あるいは“芸事”などという単語はあっただろうが,それらで表わされていた概念が,前回までに説明した“機能性芸能(これは私の造語)”であり,liberal art とは似て非なるものとした西周の慧眼は讃うべきと私は思う。彼の本意は知るべくもないが,これは絵画や音楽における対西洋間での質的差異に由来するのではなく,大衆による絵画や音楽の“扱い方”の差異に由来するのだろうと私は考える。つまり,明治期にいたるまで我が国に“芸術作品”がなかったというのではなく,大衆に“西洋的な芸術との接し方”がなかったということだ。 具体的には縄文式土器の昔から,当時の浮世絵にいたるまで,それらは今日的には芸術作品とされているが,大衆は決してそれらにリスペクトを表わしたり,保護しようとしたりしなかったということだ。土器は使って割れれば躊躇なく廃棄したであろうし,写楽も北斎も見飽きれば襖の貼り紙に使ったり,弁当や土産物の包み紙として消費されていた。事実,芸術品としての浮世絵を発見したのはヨーロッパの美術愛好家であり,それは日本で買い求めた陶磁器の包装紙として副産物的に輸出されていたものだった。 それでは,西洋においての大衆の芸術との接し方はいかなるものなのか。私は思う。ヨーロッパの音楽家は村落生活の内側にあって,村人全員の財産であったのではと。それは公園や美しい風景,名所にも近い。 各国が陸続きであるから,おのおののアイデンティティは政治体制や経済システム,そして言語や,芸術,ライフ・スタイルといった“文化の独自性”によって保ってきたのだ。そして,四方を海によって守られた島国と違って,能動的な意識がなければ,この“文化の独自性”は他国に侵略されて失われてしまう。 彼らの郷土を愛する気持ちは,『我が村にはこんな素晴らしい泉がある』,『こんなおいしいブドウが採れる』などという御国自慢に,『こんな素敵な音楽家がいる』という台詞をごく自然に加える。新しい美の基準を村人に提示する芸術家は,新発見をする科学者や,新政策を打ち出す政治家と同様に尊敬され,大事にされる。国,民族,ひいては自らの家族や子孫のアイデンティティに関わる問題という意識が,潜在的にあるからだ。そしてリスペクトを持って,日常的に芸術に接し,その関心は高く,真剣に守り育てようとする。 時代時代の権力者が,その領土内の科学者,技術者,そして芸術家を擁護するのは,権力の誇示だけでなく,力ある責任者の義務として,村人から当然のように求められていたのだろう。優れた芸術家を育成する努力。隣国が羨むような芸術は,郷土への誇り,そして愛情の源泉となる。それを村の宝として守る努力。先祖から伝えられた芸術品は,村が戦火に脅かされなかった証であり,統治者への信頼にもつながる。 戦争に負ければ,村の宝である美術品は,戦利品と名を変えて戦勝国に略奪されてしまう。しかし,そこには攻め込む側にも,国境を越えた相手の芸術に対してのリスペクトがあるのだ。大事に持ち帰って,自国の宝として美術館に保管する。戦争を“文化の独自性”を奪う,あるいは守るための政治的外交手段のひとつと定義するなら,芸術,科学,技術などの非破壊保護が,どのような破壊的戦闘局面においても優先されてくるのは,彼らにとって当然なのだ。 大正期に倉敷の大原孫三郎が世界の印象派名画を買い集め,大原美術館を作った。昭和7年に満州事変の真相捜査と称して,国際連盟がリットン調査団を派遣してきたが,彼らは倉敷で大原の素晴らしい収蔵品(特にアメリカすら所有していなかったエル・グレコ)に感嘆した。そのレポートにより,米軍は第二次大戦時に倉敷を京都,奈良と同様に空爆目標からはずしたという。 その一方で日本は,砲弾を作るための供出と言って,仏像,鐘,青銅製灯籠,金狗犬などの多くの仏教芸術を集めては,自らの手で溶かしてしまった。件の大原にも,なんとロダンの銅像2体の供出命令があったのだ。 芸術を守るために砲弾を作る文化と,砲弾を作るために芸術を破壊する文化。前回の“日本は芸術を必要としていない”という一文を,今一度,噛み締めていただきたい。
先日、京都は鴨川の河原に立ち、鴨長明が凝視したであろうその悠久の河面に、遥かな先達、河原乞食を幻想した。異界のケガレ空間から現れ、村落共同体のケガレを払い,ケをハレへと転じ,祝祭空間を創出した触穢のアーチザン。現代であったなら、まず、海外においてマエストロとしての高い評価を得るであろう才能者も、数多く在ったに違いない。まさしく方丈記。その誇るべき、となり得たであろう芸と技は、河の流れの如く、二度と戻らぬ世の忘却の彼方へ次々と流れ去った。一方、万年無変の河面の如く、その苦渋の状況は今日にまで引き継がれ、現代の河原乞食は残酷な呪いの言葉、『いいよね。好きな事でメシが食えて・・・』に晒され続けている。 昨年10月に“38歳中学校教員”氏からいただいたEメールを契機に、半年に渡って稿を進めてきた。その中で私自身も改めて、言い表わし難い不快感を伴って再認識した事がいくつかあった。
これらを攻撃的極論に過ぎぬと一笑し、改めないとするならば、今後も状況に変化はない。中世以降の大きな変革、例えば明治維新や第二次大戦等を経て、生活様式が変化してきても、オカルティックな“ケガレ思想”は絶えていないのだ。 私は実感する。あなたは如何であろうか。絶えざるケガレ思想。道端のゴミを自主的に拾うのを道徳者の美徳と誉める一方で、それを毎日の職業とする者が耳にせねばならない、通りすがりの母子の言葉、『ちゃんと御勉強しないと、あんな御仕事をしなきゃならないのよ』。ゴミから清掃職者にケガレが伝播したと、罪深くも母は教えているのだ。 こういう事もある。家族の一人が罪を犯し、悩み疲れ果てるその一家を、励まし、相談にのるどころか、犯罪者同様に避け、好奇の眼差しを向ける隣人。壁にスプレーで、心無い落書きをする若者。罪のケガレが、悩める家族全員に伝播したというのか。『あなたの御孫さんが、こんな犯罪をしでかしたのですが・・・』と老婆にマイクを向けるレポーター。そのワイドショー番組を娯楽として消費する視聴者。司法は犯罪者個人を裁くが、共同体は江戸時代同様に、その家族まで村八分にする。 様々な分野の商品棚に増殖する“抗菌グッズ”、どれほど深刻な理由があって消費者は供給を求めるのか。O-157が、狂牛病が報じられた直後だけの、経済問題にまでなる程の主婦の反応は、過剰ではないのか。若年層に広がりつつある物心両面においての異常な“潔癖症候群”は、ケガレ意識を一層強化、加速、拡散させるのではあるまいか。何もメディアでスキャンダラスに報じられる差別事件だけに、問題があるのではない。いや、むしろそれらは異常なレアケースであり、絶えざるケガレ思想の実感は、市井にこそ溢れるのだ。 総べての責任は共同体の責任者にあるのではない。彼は単なる代弁者であり、共同体構成員各々の意識、願望の統合的象徴、すなわち非実存のシンボルなのだ。『国が悪い』、『まったく政治家は・・・』などという言葉は非常に卑怯無責任で、なんら実態を伴わない戯れ言であると知れ。責任は私と貴方にある。私と貴方こそが当事者なのだ。 差別にまつわる多くの問題は、歴史的背景や社会機構を根本原因とするのではない。そうした歴史的背景や社会機構をも産み出し、意識的にも無意識的にも抱え続けている私とあなたのケガレ意識が源なのだと、私は考える。 果たして“38歳中学校教員”氏の期待に沿うような稿となったか、いささかの不安はあるが、これをもってひとまずの了としたい。 最後に、ケルンで『市民のために・・・』と言ったのは、為政者や地位のある者ではなく、タクシーの運転手という、私やあなたと同じ市井の人であったことを忘れないでいただきたい。 ・ ・ “現代河原乞食考/山城慎吾・著”と“放送禁止歌/森達也・著”は、共に解放出版社から発行された良著である。芸能と差別について興味を持たれた方は、是非に一読をお薦めする。 ギターマガジン誌 2001年6月号から2001年11月号掲載の“禁断の華園・第56~61回”への寄稿文 |