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ピンク富士山
最近、フェティッシュ関連のパーティー(イベント)に関わる事が多い。それらのオーガナイザーに友人が多いためという事もあるが、それ以前に私自身が、美しい衣装を身に纏った人々、そしてそれを身に纏おうとするメンタリティーに共感するのが、オーガナイザーからのインビテーションに喜び、深夜にも馳せ参じる理由だ。特に“Tokyo Perve”、“Torture Garden”といった不定期パーティーが、巨大かつディープで、私に壮麗な美の感動を与える。フェティッシュなファッションを具体的キーワードで説明するならば、ボンデージ、ラバー、ナイロン、PVC、レザー、サイバー、タトゥー、ピアッシング、カッティング、インプラント、コルセット、マスク、ドラァグ、ゴシック、全身タイツ等という事になる。これらはいうならば本来的なボディ・コンシャスネスともいうべきで、一般には性的なイメージに直結して捉えられる事が多い。これについて、ノンケにも広く間口を開いたパーティーに紛れ込んでしまったような、コスプレ系ニワカ・フェティッシュ少女などは「えっ、素敵だから着ているだけで、そんなエッチなイメージで見られると心外ですっ。ほら、いやらしくなんかないでしょっ!」と、過剰に自らにまとわる性的なイメージを払拭しようとする。まったくヘアヌード写真集に寄せる被写体アイドルの「いやらしくなくて、きれいでしょ」という、私にはそれこそいやらしく思えるコメント吐きに、これは似ている。 しかし、鳥も虫も魚も獣も花々も、すべて色鮮やか、形面白くあるのは、すべて生殖においての重大事なのだ。オシャレとは生命にとって性的な儀式であり、美しい(整っていて綺麗という狭義の美ではない)とはエロチックな感動なのだ。それを目にするだけで興奮物質が脳から分泌されるという実効力を持つものだ。そして、美が根源的な生命の喜びである事を、社会生活に慣れ過ぎた者は忘れがちだ。美を生命活動から切り離し、社会性の中で語り説明を付け始め、更に権威を帯びさせて祭り上げ、高尚なものにしてしまう卑しい意識がファッション界のみならず、ひろく美術界に蔓延している。「芸術はえらい!」という輩も、それに反発して「芸術なんてハイソでスノッブでFUCKだ!」という輩も、両方共、権威主義的幻想の中に翻弄されるアンポンタンだ。美そのものとは如何なる社会構造とも無縁で、強いていうならば、その美を提示する芸術家の中に、社会的な権威を持ちたがる者(美の提示を目的にするのではなく、これを手段にしてしまい、地位と名誉を目的とする)がいるというだけだ。もっと、ひたすらに単純に「おう、おう」と声が出て、瞳が丸く大きくなり、心拍が上がるという、老若男女、時代、世代、文化、言語、宗教、主義を超えた喜びだ。 全山満開の桜をイメージしよう。あり得ない事といわずに、富士山全体が無数の満開桜で覆われているイメージ(これは私がいつの日か実現させたい環境アート作品)を描いてみよう。老若男女、時代云々どころでなく、戦争中の兵士でも、葬式の最中の未亡人すらも、そんな巨大なピンク富士山を見たら、「おう、おう」どころじゃなくなる。「すげー」「ワンダフル」「オーチン・ハラショー」「ウンダバー」、歓喜、興奮。では、これが仮に桜ではなく、ピースマーク、あるいは“平和”と書かれた紙などに覆われていたらどうなるか。無邪気な歓声はもう聞かれまい。コンセプトについての評論家と作家との冷めた会話が囁かれるだけだ。そりゃ当たり前だ。コンセプト・アートがオツムテンテンなのに対し、何て言ったって桜の花はむき出し生殖器なんだから(知能vs官能)。「えー、そんな風に意識してないのにー」などとカマトト振るな。“そんな風に意識している”と思われたくないだけなんだろ。理屈抜き、解説抜き、学歴賞暦不問の美を、桜から感じただけで、桜のセックスアピールにハマっているんだ。「ちんこー!おしりーっ!うんちー!」と意味不明の大歓声を上げて、大興奮に爆発する幼児の方が、多くの美術評論家よりも美に誠実だ。全山性器!なんとも壮大愉快ではないか。 かくて、先ほどのフェティッシュ・パーティーはまさに全山性器。ひたすらに集う彼等は美しく、美しくありたいという彼等の意識自体が、また、ひたすらに美しい。肉体は美しい。幼女のはち切れんばかりの肉体も、青年の逞しい肉体も、熟女の柔らかな肉体も、百歳を目前にした老舞踏家・大野一雄氏の神秘の肉体も、すべて肉体は美しい。そして、交配期の鳥の飾り羽根に例えるべき、これら肉体を更に更に美しくする生命の工夫がオシャレ(ファッション)だ。美を提示する者を芸術家とするなら、彼等はすべてがそうだ。名刺交換に必死な画壇、音楽界の権威主義的パーティーの対極に彼等は居て、巨大なピンク富士山を、深夜に大噴火させている。深刻そうな顔はひとつもない。無邪気な歓声、満面ニコニコの満開夜桜だ。ドカーン!! <ギターマガジン誌 2002年6月号掲載の“禁断の華園・第68回”への寄稿文> |