Words Vol.27
 朗読作品 ・Shi Vol.6 “女”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.26
 朗読作品 ・Shi Vol.5 “狼”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.25
 朗読作品 ・Shi Vol.4 “睫毛”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.24
 朗読作品 ・Shi Vol.3 “骨”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.23
 朗読作品 ・Shi Vol.2 “おまえ”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.22
 朗読作品 ・Shi Vol.1“真っ赤な桜よ”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.21
 制限からの脱却
 ---無限の音世界を求めて---

  • 2003年1月1日発行OPUS誌 No.2 掲載
    インタビュー、
    構成 金大偉高橋克行
    2002年4月12日 於:都内某所

Words Vol.20
 或る華道家へ

  • 2009年12月4日 書き下ろし

Words Vol.19
 Bass Labのこと

  • ギターマガジン誌 2006年10月号から2007年1月号掲載の"禁断の華園・第120~123回"への寄稿文に、
    2009年4月加筆

Words Vol.18
 ポジティブな命の疾走と発光

  • 2006年7月、アルバム"Neo Tokyo!"
    の添付ブックレットへの寄稿文

Words Vol.17
 システムのために ....

  • 2008年2月26日書き下ろし

Words Vol.16
 生殖としての芸術

  • ギターマガジン誌 2003年11月号掲載の
    “禁断の華園・第85回”への寄稿文

Words Vol.15
 原色の都

  • ギターマガジン誌 2000年9月号掲載の
    “禁断の華園・第47回”への寄稿文

Words Vol.14
 100年後を想う

  • ギターマガジン誌 2003年8月号掲載の
    “禁断の華園・第82回”への寄稿文

Words Vol.13
 楽器の王様

  • ギターマガジン誌 1999年6月号掲載の
    “禁断の華園・第32回”への寄稿文

Words Vol.12
 RIAA Killed the Internet Star

  • ギターマガジン誌 2002年9月号掲載の
    “禁断の華園・第71回”への寄稿文

Words Vol.11
 轟々竹山

  • ギターマガジン誌 2002年10月号から2003年5月号掲載の
    “禁断の華園・第72〜79回”への寄稿文

Words Vol.10
 躍進の匂い

  • 岡山市タウン誌“Sheets of Music Vol.14(2002年1月発行)”
    への特別寄稿文

Words Vol.9
 21世紀に再生するカフェ文化

  • ギターマガジン誌 2003年9月号から
    2003年10月号掲載の
    “禁断の華園・第83〜84回”への寄稿文

Words Vol.8
 評論家について

  • ギターマガジン誌 2000年1月号掲載の
    “禁断の華園・第39回”への寄稿文

Words Vol.7
 鮮血の大輪

  • ギターマガジン誌 2002年8月号掲載の
    “禁断の華園・第70回”への寄稿文

Words Vol.6
 ライブハウスの入場料が高いとは思わないか?

  • ギターマガジン誌 2002年7月号掲載の
    “禁断の華園・第69回”への寄稿文

Words Vol.5
 聴覚特化体験

  • ギターマガジン誌 2002年1月号から
    2002年5月号掲載の
    “禁断の華園・第63〜67回”への寄稿文

Words Vol.4
 ピンク富士山

  • ギターマガジン誌 2002年6月号掲載の
    “禁断の華園・第68回”への寄稿文

Words Vol.3
 再考・市民のために…

  • ギターマガジン誌 2001年6月号から
    2001年11月号掲載の
    “禁断の華園・第56〜61回”への寄稿文 

Words Vol.2
 『ひかりごけ』の時代

  • ギターマガジン誌 2001年5月号掲載の
    “禁断の華園・第55回”への寄稿文

Words Vol.1
 "Words of a Dwarf"-ish quotes

  • ギターマガジン誌 2003年12月号から2004年4月号掲載の
    “禁断の華園・第86〜90回”への寄稿文

聴覚特化体験


1

 “無眼球室”と名付けた特殊な演奏会をおこなった。

 私の事務所が毎月送信しているメール・マガジンの購読者と、私のホームページ“禁断の華園”をマメにチェックされているマニアにだけ告知された、極めて小規模な演奏会だ。その告知は急告の形で、実施日のわずか十数日前に知らされた。この“無眼球室”の主旨を理解し、参加を希望する者は数日以内(受付け締きりがある)にメールで申し込む。そして、その中から抽選で完全限定の10名だけに、案内の返信が届く。通常の演奏会と異なり、会場は“港区某所”とだけ書かれ、一切公開されていない。予約完了した10名にすら、当日の集合場所が知らされるだけで、送迎スタッフに連れて行かれるまでは、そこがどこのどんな場所かも判らない。これは当日になって突然の飛び入り客を防ぐためだ(元来、その会場が所在地非公開の会員制秘密サロンという事もある)。というのも、この演奏会が参加者にもたらす効果を最大限にするには、演奏空間の広さと参加者の人数のバランス(一人当りの空間の広さ)というのが重要であるからだ。加えて各参加者に施術する道具の準備、また演奏中にスタッフが充分に安全管理をし、かつ参加者を介護し得る人数となると、10名という数字が必然出てくるのだ。これが飛び入り客の参加で増えてしまうと、充分な効果が得られなくなる。空間と参加者とのバランスが重要というのは、私が十年来、継続している“にこにこ音楽会(註1)”にその本質を類似させている。

 効果、施術、介護などの言葉から判るように、“無眼球室”は演奏を聴いて楽しもうという通常の演奏会とは性質を異にする。急告メールに書かれた概要にはこのようにある。『概要/参加者は全員、目隠しによって視覚を奪われる。さらに、その手足を完全に拘束されて、身動きができない状態で横になる。かくして、そこにJINMOの演奏が繰り広げられ、参加者はその生涯で初めての“純粋聴覚体験”に身を曝す事になる。聴覚のみが、嫌が応でも鋭敏に世界へと開いていく体験。その果てに、無眼球室に現れるのは、いかなる風景なのか。純粋なる歓喜の音世界を、奪われた視覚で目撃せよ。』 これを読んで参加者のひとりは、即座に“アイソレーション・タンク(註2)”による“アルタード・ステイツ(註3)”を連想したという。そう、彼の連想はたいへんに的を得ている。

 リリー博士が目論んだ五感の遮断による変容意識の実現は、私も以前から興味深く思っている。“無眼球室”の発想に博士の影響があるのはもちろんだ。しかし、感覚の完全遮断と大きく異なり、私が目的したのは、かつて私自身が、また幾人かの私の知人が、そしておそらく、にこにこ音楽会の参加者達が、体験している“聴覚特化体験”とでも呼ぶべき、ある種の変容意識状態の快感、いや歓喜の現出なのだ。

 結果、私自身が予想していた以上にすばらしい効果が得られた。聴覚特化体験について稿を進めていくことにしよう。

・         ・

  • 註1:“神奈川県立ひばりがおか学園”において、主として強度行動障害といわれる最重度重複の知的障害者(ほとんどが言語を持たない)を参加者にしてのサロン・コンサート。固定した約20名の参加者に、筆者のスケジュールの合う限り毎週、継続的におこなわれている。演奏時間や会場はもちろん、光量、室温なども四季を通じて同じになるよう配慮されている。
  • 註2:人工的に感覚遮断を起こさせる為のタンク状の装置。形状は大きめの棺桶型の他、長い卵型もある。タンク内は、温度を体温とほぼ同じに保たれた無味無臭の比重の高い液体が数十センチの深さで入っており、完全に遮光されている。体験者はその中に全裸で浮かび、文字通り、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の五感への刺激を遮断された状態になる。人間の脳は通常、絶えず五感からの情報を処理し、それを拠所に活動しているが、その情報が完全に遮断されると脳や意識は一体どのような変容を来たすのか。その研究を、自ら被験者となり、おこなっているアメリカのジョン・C・リリー博士によって考案された。
  • 註3:カリフォルニア大学の心理学博士、チャールズ・タート氏によって命名された言葉で、正確には「altered states of consciousness」という。変容した意識状態を指し、主な特徴として、時間、空間感覚の変化、肉体感覚の喪失、潜在意識の顕在化、幻視などが挙げられる。この様な意識状態になるのは、半睡半覚の状態の時や瞑想時で、また、LSDなどの強い幻覚作用を持った薬物の摂取、アイソレーション・タンクを用いた感覚遮断によっても引き起こされる。前述のジョン・C・リリー博士は、アイソレーション・タンクを用いることによってこの様な意識状態を作り出し、通常の意識状態の観察ではわからない人間の意識の特性を、自ら被験者となり研究した。この模様は映画『アルタード・ステイツ』(ケン・ラッセル監督/1980年)のモデルにもなっている。


2

 交通事故などの際、無音状態になって、高速で近付く自動車がクッキリとまるでスローモーションの様に見えた・・・。また、野球選手がバッティングにおいて、周囲の音が消え、ボールが止まって見えた・・・。このような事例を日常的に、我々はよく知っている。これはコンピュータでいうなれば、脳内のCPUが平常時とは異なる働きをおこなったためと考えられる。通常、五感に割り当てて使用しているCPUパワーを、異常事態に際して“視覚”に特化してフル稼動させたためだ。故に、聴覚などのためのアプリケーションはシャット・ダウンされ、無音状態になり、視覚の分解能が異様に高まる。いうなれば“視覚特化体験”。一説によると、その情報処理能力は平常時の30数倍になるという。このようにある条件下では、我々の感覚は特化し得るのだ。

 能動的にシャット・ダウンに近い状態にできるのは構造上、目蓋を閉じることでそれが実現する視覚だけだ。平常時に視覚以外の任意の感覚を鋭敏に機能させようとする場合、例えば音楽に集中する時(聴覚)、ブラックボックス的なものに手を入れて内容物の様子を探る時(触覚)、非常に美味しいものを味わう時(味覚)、微妙な香りを嗅ぎ分ける時(嗅覚)、我々は目蓋を閉じている(実は他の感覚も鈍化しているはずだ)。ただ異常事態というほどに切迫してはいないので、30数倍もの超能力的な“感覚特化”にまでは至らない。単に任意の感覚の鋭敏化であって、他の感覚も鈍化はするがアプリケーションがシャット・ダウンしてしまった訳ではない。

 逆に望まないのに、強烈な入力リソースによって、感覚が鈍化してしまう事もある。頭痛や歯痛に悩む時、何を食べても味がよく判らない。絵画や風景に見とれるあまり、何度も呼び掛けられたのに気付かない。歩きながら携帯電話で話していて、目的地を通り過ぎてしまった。これらは誰しも経験有る“感覚鈍化体験”だろう。余談になるが以前から気になっていた事がある。「何故、駅弁が美味しいのか」という事だ。それは、やはり味が良いからだという意見もあるだろうが、そうでもない。美味しいと感じた駅弁を、いつもの自宅の食卓で食べてみるという実験をしてみた。美味しく思えないのだ。むしろ、冷静に味わうほどに不味くさえ感じる。しかし車中では美味しかったのだ。何故か。私はその理由を味覚鈍化にあると仮説する。車窓の景色は目まぐるしく視覚を刺激し、友人との楽しい会話は途切れる事無く、身体は列車の絶間ない揺れを心地良く感じている。嫌が応にもポジティブに高揚した脳。普段の食事のように落ち着いて味わう場合より、格段に強烈な複数の他感覚の入力リソースによって味覚鈍化してしまい、そのためポジティブなイメージ“楽しい”に連結した、“美味しい”という印象を持ってしまっただけではあるまいか。平常時においては“美味しい”という喜びが、結果としてポジティブなイメージ“楽しい”に結ぶ。車中ではこの逆転が生じ、味覚鈍化の隙をついて、楽しいから美味しいはず、とバグってしまったわけだ。駅弁の味がもたらした喜びではない。また、味そのものも漠として正常に感覚し得ていない。故に駅弁は美味しいというより、楽しいのだ。

 太陽の次に眩い強烈な光線の明滅、汗が流れ呼吸が激しくなる程の身体の動き、衣服も震える大音量、そう、楽しい大規模ロック・コンサートも車中同様に感覚鈍化の場だ。後から海賊録音物を冷静に聴いて、(演奏内容や音質が良好でも)「あれ、こんなにショボかったっけ」と感想するのは珍しくない。「やっぱり大音量じゃなきゃ」、「ライティングとか、とにかくステージがすごかったし」、「あの雰囲気が良いんだよ」などというのは、どれも正直な意見だろうが、駅弁でいうところの味、肝心の音そのものについては、如何なものか。「いやぁ、それはライブだし・・・」と誤魔化すように納得しがちだ。「ちゃんと音を聴きたきゃ、CDで聴くよ」、確かにそうだ。集中して音に接しようとするなら、誰にも邪魔されず、一人で目を閉じて臨む。これがもし、映画館だったとしたらどうだろう。隣の席の客が、俳優の名を叫び、セリフに合いの手を入れ、立ち上がって始終暴れている・・・としたら。当然、あなたは映画の内容には集中できない。「楽しみ方が違いますよ」と注意するだろう。ロック・コンサート(すべてのコンサートではない)と映画、同じショウ・ビジネスだが、大きく性質を異にする。前者が駅弁なら、後者は静かな料亭だ。どちらの方が優れているというのではない。どちらも楽しい。ただ、楽しみ方がまったく逆という事だ。ロック・コンサートの楽しみは“音”ではなく、複数の強烈な入力リソースによる聴覚鈍化だ。

 一方、集中してCDを聴いたり、室内楽コンサートなどを静かに鑑賞するのは聴覚鋭敏化の楽しみだ。音だけに没入し、他の四感覚が鈍っていく。微細な音表現に鑑賞する者の脳が呼応する。この集中を可能な限り高めれば、どうなるのか。すなわち視覚特化体験があるならば、聴覚特化コンサートというのも実現し得るのか。30数倍の情報処理能力を持った聴覚で体験する音楽会に、聴衆は如何なる反応を示すのか。私は知覚の扉を叩きたいと強く望んだ。


3

 五感は常に世界へ見開かれ、脳はそれら感覚器官から伝えられる情報を、それまでの記憶の集積に照合しながら分析、類推し、自らを取り巻く環境を判断している。これは胎内での発生と同時に始まり、まさに死の瞬間まで途切れる事無く続く。睡眠中でも止む事はない。活動停止になっていないからこそ、目覚まし時計も有効なのだ。ただ、覚醒時に比較して感覚器官の働きは鈍くなっている。脳にしてみれば、センサーからの入力信号が微弱になっている訳で、それでもその不十分な情報からも照合・分析・類推し続けようとする。脳は常に判断したがっているのだ。故に睡眠中のちょっとした刺激、例えば耳もとの蚊の羽音、あるいは組んだ足が数センチずれた事などが、ジェット機の頭上通過に、断崖絶壁からの落下に、というようなイメージへ連想ゲーム的に転換される事が、夢中においての常となり得ている。コンピュータの起動ディスクが自身を完全に断片化解消して最適化できないのと同様に、例えそれがあり得ないイメージであったとしても、そのように実感してしまった脳自身が、その実感を疑う事はない。睡眠から覚めて、今まで自分は眠っていたのだとという自覚があってこそ、初めて先程までのとんでもないイメージは夢だったのだと認識できる。しかし、そうした自覚が無い場合もある。古くから白昼夢などと呼ばれるが、超常現象や奇跡といわれているものの多くが、こうした微弱な入力信号に対する脳の無自覚な、連想ゲーム的拡大(時にして跳躍的)解釈によるものではなかろうか。

 かつてペンシルバニア大学で興味深い実験がおこなわれた。被験者に宗教関係者を集め、祈りによって脳の活動がどのように変化するのかを調べたという。活動部位の計測にはポジトロン放射断層撮影法が用いられた。その結果、安静時と比べて明らかに頭頂葉にある体性知覚野の働きが変化したらしい。この部分は各感覚器官から送られてくる五感情報を処理するところだが、祈りの最中にはその活動が鈍くなったそうだ。事実上これは睡眠時の感覚鈍化と同じで、必然、脳の無自覚な拡大解釈が起るはずだ。祈りの最中、熱烈な宗教者は超越的存在の隣在、またそれとの同一化を実感するというが、これは体性知覚野の働きが変化した事が原因と説明できそうだ。禅において半眼といわれる半覚醒状態もこれかもしれない。高まる祈りの中、ステンドグラスから差し込む陽光に神の姿を見た、ドームに反響しまくる聖歌の大合唱に神の声を聴いた、というのは本当に脳がそのように実感したに違いない。そして脳はそれを疑う事はできない。奇跡は主観において実現しているのだ。古来あらゆる宗教に共通して在る儀式においての音楽、光、踊り、群集化、、、。こうしたものは体性知覚野の働きを変えるための装置といえるだろう。賢明な読者は、ここに前回の大規模コンサートの話を思い起こすはずだ。そう、私は祈り、コンサート、そして祭り、戦争などは、変貌する体性知覚野というポイントにおいて、同じ地平に立つと考える。奇跡が実現する歓喜の地平なのだ。(念のために。私は決して神仏の実在性そのものを否定しているわけではない。とはいうものの無批判に肯定もしないが。)

 奇跡を実感できる宗教者というのは、当然熱心な信仰心を持ち、日常的に祈りを捧げ続けているはずだ(中には確かに、祈りと無縁の無神論主義者だったが、奇跡の実感を契機に信仰に目覚めたというケースもある。これとて、たまたま体性知覚野の異常によるバグについて、彼には他の論理的な説明が不可能だったために、神仏が起こしたのだと納得した訳で、そもそもの奇跡の実感については、まったく現実の事と捉えている点において、既に潜在的に宗教的といえる)。これは修行によって体性知覚野のコントロールができ得るという事だと私は思う。そして、ほとんどの宗教がその儀式において、正しい祈り方というフォーマットを定めている。より体性知覚野をコントロールしやすくするための知恵なのか。

<1>まず目を閉じる。
<2>左右の手を合わせる。
<3>声・言葉を連続的に発する。
<4>頭部を垂れる。
<5>膝を曲げて座る、あるいは膝まづく。
などといった一連の動作、状態は実にいろんな宗派の儀式に共通して見られる。

<1>は能動的な視覚遮断という事だろう。
<2>は触覚の遮断。加えて無意識中での識別性感覚(目を閉じて対象物を触覚識別する感覚)、無意識中での固有覚(身体各部位の空間位置や相互位置関係の感覚)などの遮断。
<3>は外来の聴覚刺激の遮断。という風に考える事ができる。
<4>、<5>については知り合いの心理学者、精神科医に意見を求めてみた。胎児にも似たこういう姿勢は、考え事をしたり、悩んだりといった、内向した自閉傾向の、つまりなるべく外来の刺激を受けたくない時にとる姿勢だという。このように、リリー博士のアイソレーション・タンクのような特別な機器を用いずとも、変容意識を得るためのフォーマットを宗教者は生み、伝承してきたのではあるまいか。

 この祈りのフォーマットを、目指す聴覚特化体験演奏会“無眼球室”に取り入れようと私は考えた。


4

 聴覚特化という変容意識を導きやすくするために、“祈りのフォーム”を導入するのだが、具体的にはどのようにすればよいのか。ただ目を閉じるといっても、数分間なら問題はないが、演奏会の間中(60分間)となると、我慢、辛抱、強い意志といったものが必要となる。「目を閉じていなければならない」という義務感に意識が捕らえられてしまっては、開眼許可される終演までの時間の長さを、ジリジリと認識させる不快の砂時計しか見えてこない。気付いたら聴覚だけだった、とするには目を閉じているという意識すら抱かせてはならない。そこで私は優しく柔らかい黒色の布地で、厚みも幅も大きくとった目隠しを作った。接触面積が大きくなっているので、あまり圧迫感なく取り付けられ、その装着感は柔らかなヌイグルミに顔面を押し当てた時の感触に近い。この目隠しの中で、自然と瞼は脱力され、いわゆる半眼となる。また、目隠しは視覚遮断と同時に、演奏会につきものの周囲を見渡して自らの反応を制御していく、社会性を基にした集団機械的反応からの解放、つまり完全に主観のみに従う、真実、個人的で自発的な反応で、聴覚刺激入力を楽しむための装置としても機能する。

 問題となるのは装着の瞬間だ。ここで強烈な緊張感を抱かせては、演奏中の意識は不安なネガティブな方向へ向きかねない。いきなり目隠しをされたのでは恐怖感すら抱くだろう。従って一番最初の参加呼び掛けの時から、目隠し(及び手足拘束)の件はアナウンスしておいた。目隠しの直前には暖かいハーブ・ティーとアロマ・オイルでリラックスしてもらいながら、詳しい主旨説明に耳を傾けてもらう。私はその様子を、少々おかしな例えになるが、旅行者達がイロリを囲んで村の古老の語る民話に聞き入る、といった雰囲気に近付けるようにした。装着時にはリラックスしている事、これが演奏内容自体に引けを取らない程、大変に重要だ。加えて装着前後の照度差による刺激を押さえる工夫も必要だ。参加者はまず都内某所の集合地へ呼ばれるが、ここが近辺でも特に暗がりになっている場所。そこから街灯の少ない暗く細い裏路地を通って、会場へ案内される。そしてその会場内が外と同様にほの暗い状況になっている。集合から目隠しの瞬間まで、参加者は一度も眩しい光に出会う事は無い。このように物理的には集合時から、更に心理的には最初の告知時から、より良い効果を得るための配慮を実践した。

 次に鑑賞時の姿勢。祈りのフォームにおいて基本になる、膝を抱え込むに近い胎児のような丸くなった姿勢というのは、通常の演奏会のように椅子に座ったり、スタンディングの状態では維持が難しい。重力に身を任せ、脱力しても姿勢が崩れない状態というと、やはり床へのゴロ寝が最適だ。その床も清潔でなければ、いらぬ不安感の元になる。土足を前提とした一般的な演奏会場では不可能だ。その点、都内某所在のこの会場は普段は、私の友人が主宰の秘密サロンで、雰囲気も含めてすばらしい好適所だった。そして、目隠しと同じ生地を使用した拘束用の紐で、参加者の手足は縛られ、床に優しく寝かされる。これは手慣れた二人の専門スタッフにより、痛みや不快感の無いよう注意深く施された。目隠しの効果と同様に、「ずっと祈りのフォームを維持しなければ・・・」という義務感を生じさせない事が主目的だ。単純に手足の自由を奪うのではなく、演奏中の姿勢や身の振り方、手持ち無沙汰になった時に行いがちな無意識のボディランゲージなどから解放し、より自由に意識を振る舞わせる為だ。事実終演後、ほとんど全員が、「自分が寝ているのか、座っているのか、立っているのか、はたまたどちらが上で、どちらが床なのかも判らなくなった」と感想した。これは識別性感覚や固有覚からの解放を意味する。血が止まる程にきつくはなく、かといって、ちょっとした寝返りなどで解けてしまう程でもない、絶妙な縛り具合は専門家ならではの妙技といえる。施術する二人は看護婦か保母の趣があった。参加者も安心して身を委ねているようだった。「常に注意深く見守っている。万が一苦しい時はすぐに拘束を緩める」というアナウンスもした為、参加者は私の予想以上にリラックスしていた。

 入場から主旨説明、そして全員の準備完了まで、3、40分。その間、当たり障りの無いアンビエント系をBGMに、私は柔らかな口調で参加者に語りかけ続けた。そして全てが整った時、私は最後のアナウンスをした。

「今から60秒間の無音となる。その後、演奏が始まる。」

 参加者の一人が後に述懐している。「まず、目隠しされた瞬間に、スイッチが入ったように聴覚が格段に鋭敏化した。そして手足拘束の後の無音の60秒に、更に更にその感度が上昇した」と。これは私の意図の通りだ。しかし、この目隠し拘束状態での無音60秒にはもう一つの効果を期待していた。日常における社会的な相対的時間経過の実感への決別だ。然して、時の流れ方は各々の主観に副った絶対速度に変わり始めた。

 60秒が経った。私は第1音を奏で始めた。


5

 その演奏に使用したのはコンピューターとギターだ。主なソフトウェアはLogic Audio、MetaSynth、MAX / MSPなどだ。目隠しをされているなら、実際にライブ演奏せずに、あらかじめの録音物を再生して、ただ流すだけでも良いのではと思われがちだが、それは違う。参加者の反応を観察し、これに合わせて演奏は適切に、刻々と変化させねばならない。実時間で制御できる音源であることは絶対条件なのだ。

 ある特異な体験がいかに特異であったかを実感するのは,それを日常と比較した際の差異の大きさによる。この無眼球室で起こる特異体験として, 【[1]幻視/[2]重力・方向などの認識における幻覚/[3]通常,寝転がっているだけでは噴出しない強烈な感情の自覚,など】がある。加えて,【[4]非常に小さな音量部においても明確に,細部まで聴き分け可能になる高分解能化/[5]日常,ほとんど認識外にある可聴域の限界周波数近辺の音についての明確な実感/[6]時間経過(これはリズム感にも通じる)の速度の変化,など】も起こる。これらのうち[1]〜[3]については,日常生活においては,まず体験し得ないものなので,自らの身に起こればそれだけで,特異体験であると自覚できる。一方[4]〜[6]については,体験中はその状態が当たり前のように感じてしまう無自覚な変化だ。ゆえに演奏後しばらくして,感覚が常態へ戻った時に,参加者自身が比較して,認識しやすいような曲アレンジの設定配慮が必要となる。

 具体的にはまず[4]について。演奏の平均音量を非常に小さくしておくことだ。これは普通の会話音量より小さい。もっとも小音量部では,呼吸音よりも小さくしている。そして演奏中,私が操作するコンピューターのマウスのクリック音,ライターの着火音といった音量変化の要素を混ぜて鳴らしておく。こうすることで,演奏後,改めて“先程のクリック音はこんな小さな音だったんだよ”と聴かせて,自覚をうながす。次に[5]について。オシレーター・プログラムを用意し,発信音が20Hz〜20kHzをゆるやかにスウィープするようにして,演奏中に印象的に盛り込んでおく。そして, 演奏後に改めて聴かせ,その聴こえ方の違いを自覚させる。そして[6]。同じリズム, 同じBPMが長時間(数十分)にわたって続くことは,感覚鈍化を引き起こしてしまう。注意を持続させるために,多種多様なリズムをさまざまなBPMで連続変化させる。そして演奏時間を,日常生活の時間単位として最も馴染みのある60分にする。まったく正確に60分で演奏を完了させる。演奏後,私が参加者にかける第一声は“ちょうど60分です”とする。このひと言で参加者は皆口々に,自らの時間経過の感じ方について感想をもらすようになる。

 以上のような設定配慮を施した演奏は当然,60分1曲となる。あるいは途切れることなく変化する組曲のような形とも言える。その変化の仕方は急激にガラリと変わることもあれば,なめらかにモーフィングしていくこともある。いずれも参加者が慣れて感覚鈍化する前に,彼らの様子をうかがいながら行なっていく。

 そして演奏において最も重要なのは,骨格とでも言うべき音律だ。私はこれに12平均律ではなく,自然倍音律を使用した。この違いはコンピューターにおけるOSの違いほど決定的なものだ(自然倍音律が持つ力についての私の考えは,また別の機会に述べることにする)。無眼球室においては,基本周波数を110Hzにし,オシレーターによってその整数倍の周波数を,22kHzまでの範囲に200種発信するようにした。これに正確に調弦したギターのA弦のハーモニックスを加える。いかなる組み合わせであろうと協和し,ウネリを生じない自然倍音律は,12平均律では不可能な大量の声部の同時発音を可能にする。それは力強く,純粋で,直線的で,美しい。この美しさは複雑な雪の結晶がそうであるように,人知の及ばぬ自然現象ならではの美だ。

 60秒間の無音状態ののち,私が奏でた第一音は,この基音110Hzの正弦波だった。 無音の中からかすかに浮かび上がるようにフェードインし,ゆったりと整数倍の波が重なり始める。まったくウネリのない,つまり完全にノン・ビートの音は,目隠し拘束状態の参加者たちの時間感覚を,原始の悠久のそれへと転じ,安定,協和,安心といったポジティブなイメージを抱いて,ソニック・ダイブとでも言うべき状態を招来する。60分の間にさまざまな変化をつけ,時に悪質とも思える不協和の塊(微分音クラスター)をぶつけることもある。そして最後はビデオの逆回転のように,徐々に音数を減じて110Hz正弦波ひとつに戻り,再び60秒の無音。私の声による完了告知で終わる。

“光を見た”,“時間感覚そのものを喪失した”,“怖い音で呼吸が不自由になっ た”,“上下左右,とにかく位置感覚がわからなくなった”,“遠いところへ高速で 移動しているようだった”……云々。これらは参加者の多くに共通した感想だ。中には光の色が同じだった者も数名いたし,幾何学図形を見た者,あるいは具体的な像を見た者もいた。前述の[4]〜[6]については驚くことに,ほぼ全員が異常な聴覚の鋭敏化を実感していた。

 のべ30数名が参加したが,そのほとんどが口にしたのは“快感だった”,“もう一度体験したい”ということだった。まったく残念なことに,私自身はその場に居合わせながら,この体験をすることはかなわない。まるで宇宙飛行士を見送るNASAの職員のような気分だった。十分な成果が得られたので無眼球室自体は休止させたが,この分野の研究は現在,さらに追求している。

<ギターマガジン誌 2002年1月号から2002年5月号掲載の“禁断の華園・第63〜67回”への寄稿文>