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轟々竹山
大好きな竹山の話をしよう。 高橋竹山。彼が邦楽界に与えた影響は測り知れない。かくいう私も、専門楽器は異なれども、最も影響を受けた音楽家として、尋ねられれば臆面も無く、彼の名を挙げる。生前の彼の生演奏を、それこそ文字通り、手を延ばせば届く至近距離で、何度も体験できたのは、私にとって大きな財産となっている。 演奏会はいつも楽しかった。演奏はもちろんだが、曲を説明する竹山のMCがまた面白かった。ユーモラスでありながら、味わい深い。よく喋る人だった。曲の長さと同じくらい喋り続ける事も珍しくはない。演奏会毎に時事の話題も盛り込まれるが、曲について語り出すと、まるでサンプラーのように毎回同じエピソードを聞かせてくれる。しかし飽きない。単に機械的に話をしているのではなく、彼の演奏同様に渾身の誠実をもって、内なるイメージを伝達しようとしているからだ。 楽しい話では竹山も独特の腹式呼吸の大笑いまじりで、聞く聴衆もその笑い声に巻き込まれる。苦労話ではまた、聴衆も皆胸のつまる想いになる。誰が何時何をどうした、などという表層の言語的データに魂は揺すぶられない。言語はメディアに過ぎない。聴衆は彼のメディアによって胸ぐらを掴まれて引きずり込まれ、竹山のあの紋付の内側の、そして更に皮膚の内側の“色鮮やかなビジョン”に触れさせられて、感動するのだ。驚くべき事だが、事実、私も含めほとんどの聴衆(会場は東京)は竹山の言葉の3割程しか理解できなかったはずなのだ。というのも彼の言葉は容赦の無い津軽弁だったからだ。 竹山から繰り返し聞いたMCの細部は、私にとって未だ理解されてはいない。しかし言語を理解せずとも、皮膚の内側に触れる事ができた。何度も聴きに行く内に、その話もまた曲の重要な一部であり、表現である事に…、いやステージ上でおこなわれるすべての立ち居振る舞いが…、いやいやステージを離れた日常においても、すべての時間、生きている時間そのものが、表現活動である事を実感させられた。そして、音も言語と同様、メディアに過ぎず、オカルティズムを排して音を道具としてクールに接して扱える表現者が、熱く誠実な音楽家たる事を実感させられた。そう、音楽家は音に本質を求めてはならないという事を実感させられたのだ。奇しくも敬愛するアヴァンギャルドの戦士・岡本太郎、舞踏神・大野一雄と非常に類似した香りが、私には感じられた。 さあ、竹山の話をしよう。 本名、高橋定蔵。1910年、青森県西津軽郡小湊村(現・平内町)に、貧しい農家の6人兄弟の末っ子として生まれる。 “おらの眼(まなぐ)見えねぐなったのは、なんでも生まれてまだ二つになんねえどき、麻疹(はしか)にかかった。” 「自伝 津軽三味線ひとり旅」(新書館 1975刊)は、このように書き出されている。生まれながらの盲目であった訳ではない。たった1歳数カ月であっても見えていた期間のおかげで、見えるという事がどういう事であるか、という理解が彼にはある。生まれて間もない乳幼児の眼球に飛び込んでくるこの世の視覚情報は、成長してからは想像もできないほど激しく美しいものだと思う。そして彼の視覚記憶は失明以降、彼の皮膚の内側で発酵するが如く、いっそう色鮮やかに輝きを増していく。非常に竹山と似た境遇の芸術家に、同時代同郷出身の棟方志功がいる。極彩色の板画(版画)は、まだ良く見えていた幼少期の視覚記憶の発酵によるものというような事を、棟方自身述懐していた。多くの聴衆が竹山の音から感じるビジュアル的感銘は、彼が1歳数カ月で皮膚の内側に封印し、その後発酵させ続けた“光の洪水”に触れる事に依るのだ。 今から百年近く前の貧農の、多兄弟の末の子で、しかも盲目。将来にどのような希望があるというのか。竹山にとって、最初の社会との関わり、それは就学だった。子供特有の容赦無いいじめ。たった2日で小学校を辞めざるを得なかった。当時は、現世での障害は前世での報い、すなわち因果応報という考えが今より強く、幼い竹山の苦しみはどれ程であったか、想像だに胸が苦しくなる。齢80を越えてからも、毎度MCで当時の苦しさを、語気荒く語り続けていた程だ。たった2日で社会と決別した少年。 学校教育も受けない彼が、生きていく未来。そこには“ボサマ”になるしかなかった。
“ボサマ”。 これは東北地方の方言だ。主に津軽、南部地方において、家々を門付し、物乞いをして生きる盲人を指す。津軽の風雪の中、ボサマは杖を突きながら、見えぬ眼で民家の門を探して漂泊する。その姿は、如何にも見窄らしい乞食然として、手拭で頬かむり、背中には野宿用の夜具・生活道具を背負う。そして、祖末な楽器をその手に携える。多くは三味線、中には雨天用に尺八を持つ者もいた(三味線のボディトップは革、弦は絹、雨に非常に弱い)。果たして門を見つけると、楽器を構え、門前から家人に届けと演奏を始める。やがて門が開き、家人から僅かな米や野菜の施しを受ける。優しい人ばかりではない。いくら演奏しようと門を閉ざされたままは日常茶飯事。わざわざ出て来て、「うるさいぞ!馬鹿野郎!」と詰られたり、虐められたりも珍しくない。何軒も廻らねば食ってはいけぬ。貰いが無ければ、隣村まで行かねばならぬ。大雪になれば歩く事もできぬ。二日も荒れれば、餓えていく。倒れても助ける者はいない。「ホイド(乞食)!」、「メグ(盲)!」と罵られ、絶望を見えぬ眼で直視しながら、それでも生きるための音を轟かせる、これがボサマだ。 弱いボサマは野たれ死ぬ。生き残るには必然、「音よ、、家人に届け。家人の胸中の情けを揺るがせ。」と、そのピッキングが強くなる。家人が出てくるまで諦めず、演奏し続けるために、その楽曲は即興性を強め、サイズも自在なものとなる。“津軽の魂の音楽”などという美句では表しきれない、生きる情念、絶望と怨念の轟き、“津軽三味線”はボサマの生きる術として生み出された。 中国の三弦が、琉球の三線を経て、日本の風土に応じた改良が成され、三味線となったのは16世紀半ばのことと伝えられる。当時の琵琶法師らの手により、現在の三味線の原型が作られた。まだ座敷においての歌の伴奏楽器であったために、それほどの音量は必要ではないから、ボディも小さく、ネックも細棹と呼ばれる華奢なものだった。その後、江戸期において歌舞伎、浄瑠璃などの舞台芸術と結びつき、より音量が求められ、棹は太く、胴は大きく改良された。以前のものと区別して“太棹”と呼称される。これにより、庶民で満杯の会場に音を響かせることが可能になった。これは同時にストリートでの演奏や、門付演奏も可能になったという事だ。 江戸期において最も隆盛を極めたのは、三味線音楽といっても過言ではなかろう。しかしながら、当時の文献には“津軽三味線”という言葉は見当たらない。更に明治、大正、そして昭和の初期においても、このような言葉は無い。驚く事に1960年代に入ってから、ようやく使われ出した言葉なのだ。ボサマが各地を活発に演奏して廻っていた時代でさえ、それは“津軽三味線”とは呼ばれていなかった。ただ“ボサマの三味線”といわれるだけだった。すなわち、それは音楽ではなく、乞食芸として蔑まれていたのだ。文献に記す価値もないものと、つい最近まで考えられていた訳だ。 一般に津軽三味線の始祖は、新潟のゴゼ(盲女芸人)から手解きを受けた盲人にして被差別階級出身者の演奏家、北津軽郡金木町神原の“仁太坊(1857-1928)”といわれている。ただ実際に仁太坊の演奏を聴いたこともある高橋竹山自身は、この説を否定している。いずれにしろ、津軽三味線が被差別階級、身体障害者などの生業として誕生してから、まだわずか1世紀に過ぎず、およそ“伝統”、“流派”、“家元”などの権威から大きく距離をおいたところで、まったく自由に成立してきたものである事は確かだ。食っていくには家人に門を開かせ、一粒でも多くの米を恵んでもらうために、感心を与えるような更に工夫ある演奏をせねばならない。技巧の超絶化と共に、情けを揺るがす強く深い表現。更にと。ボサマの演奏表現は日々日々、生きるために改良されていく。更に、更にと。その表現の強化、深化、前進は、ボサマの漂泊の日々と似て、立ち止まれば、つまり保守化すれば、死をもたらす厳しさの日常。ここ数年、売らんかなとばかりに、ことさらに“伝統”や“○○流”、“語り継がれた”、“守られてきた”などとCDの帯や、公演チラシに記して、あたかも琴や鼓などと同様の権威付けをして、そのような錯覚を意図的に与えようとする傾向が強い。読者よ、悟れ。本来というか、つい最近まで、津軽三味線は保守の対極に生き、いかなる権威にも頼らなかった。むしろ、そうした権威社会に寄生する事すらもなく、村落外部の異空間に漂泊し、ボサマの視るその暗黒世界で、パンクにアヴァンギャルドに轟いていたのだ。 ……時は1964年、その名も“源流・津軽三味線”というアルバム。世界で初めての三味線独奏アルバムがリリースされた。これにより、人々は三味線独奏という“音楽”を知る。演奏したのは、“ボサマの三味線”奏者、高橋竹山。牙をむく老狼の唸りを聴け。
100年近く前の極貧農家の、多兄弟の末っ子にして盲目の乳幼児。当時なら“間引き”されてもおかしくはない状況だが、両親は竹山を育て上げる。間引きとは乳幼児を人為的に窒息死させるもので、津軽では“つぶす”といった。津軽の農業史は凶作の歴史であるという。宝暦年間の人口は22万ほどだったが、この数は幕末までのほぼ100年間においても変化していない。凶作時の大量餓死の影響もあるが、それ以上に“つぶす”という悲しむべき慣習によってもたらされた人口調整による安定なのだ。この慣習は明治中期まで、内密に継続されていたという。つぶされた赤子の供養は地蔵信仰に直結し、死者への慕情がイタコを必要とした。恐山の必然は、そうした死を日常に密着させた凶作にあるといえるかもしれない。そして、つぶされずに生き残ったいわば“望まれぬ存在”、ボサマ。その表現に苦悩、哀切の響きを感じざるを得ないのもまた必然といえるだろう。イタコとボサマ、奇しくも双方とも盲人職。彼等は無明の冥界を直視するメディアムなのだ。 『この三味線でどれほど苦労することになるのか、そういうこと考える頭もない。まだほんの子供だったが、それでも遊びにいぐんでねえ位のことはわがっていた。(自伝・津軽三味線ひとり旅/新書館刊)』と竹山は述懐する。今日の少年が初めてギターを手にする時の輝くような喜びは、そこには無い。親は竹山に樺桜のケイコ三味線を買い与えた。まったく良い楽器ではなかったが、それでも12円もした。当時の竹山の父親の日当が、僅かに2銭であったことを思うと、その高額さが判る。600日分の稼ぎに相当するのだ。つぶさずに育て上げた両親の、厳しくも切実な愛がそこにある。そして母は竹山の手を引き、隣村・藤沢のボサマ、戸田重次郎のところへ連れて行く。1924年11月、14歳の時のこと。少年がボサマになるための、親元を離れての住み込み修行が始まった。 戸田は成人してから失明し、その後三味線を始めたため、竹山にいわせると技量としては優れた奏者ではなかったらしい。しかし、名手とされていた梅田豊月から“じょんから”を、佐藤綱吉から“よされ”を習い、昔のままの形の、フェイクしない三味線を筋道良く、きっちりと演奏する人だったそうだ。戸田はこれら2曲を正確に竹山に伝授し、後年竹山はそれぞれ“三味線じょんから”、“三味線よされ”としてアルバムに残している。それにより、我々は本来記録に残されないはずの“ボサマの三味線”の原型を、今日知り得る。戸田自身ボサマであるから、当然門付をせねばならない。修行は各地を漂泊しながらもおこなわれた。そして1925年5月、戸田に連れられ初めての函館で、竹山は生涯忘れ得ぬ、運命的な音と出会った。 戸田は当時、函館に居た梅田豊月に、竹山を会わせたのだ。「ちょっと弾いてみろ」と豊月はいう。弾いた竹山に「唄はたいしたことはないが、三味線はたいしたものになる」と評し、自身の三味線を聴かせた。忘れ得ぬ、そして生涯追求したいとさえ思わせた豊月の音。梅田豊月もまた身体障害者であった。しかしそれは盲目ではない。当時“福助”と呼称された小人症だったのだ。その身長は130センチほどで、従って手も指も通常より極端に短い。そのため一般的な押弦法はできず、親指をネックの背面に位置させ、小指まで使用するという独特の運指をおこなっていた。これはまったくギターにおいてのクラシカル・フォームと同様だ。右手のピッキングも一般的な力の籠った“叩き”ではなく、柔軟に緩急・強弱・アタックニュアンスに神経を配ってコントロールするものだった。「三味線とは思えない、まるで琴のようにきれいな音だった」と竹山は回想している。肉体的ハンディが生み出した合理的な奏法による深い音楽的表現。「三味線は叩くのではない。弾くものだ」と主張し続けた竹山の由縁が、このグルともいうべき豊月の音との出会いにある。竹山が豊月の音を間近に聴いたのは、この一回限りだった。それから16年を経た1941年。竹山が東京・浅草オペラ館に興行でしばらく出演していた時のこと。浅草の雑踏を歩いていると、忘れ得ぬあの音が耳に飛び込んできた。「豊月だ!」と竹山は瞬時に判別し、その音を追う。しかし、見えぬ目、人込みの為に、追い付けず見失ってしまう。そして、その翌日オペラ館の楽屋に、なんと豊月がふらりと現れ「あの時のオンジか、大きくなったな」と言葉をかけていったという。運命的邂逅とはまさにこれか。その数年後、誰に尊敬される事も無く、この小さなグルは弘前市に孤独に死んでいる。 竹山の音、その源流はここにある。
1924年11月。母に手を引かれ,隣村のボサマ,戸田重次郎のもとに住み込みで弟子入りしたのは,高橋竹山14歳の時だった。果たして,この修行は1926年10月まで約2年間続いた。数曲習ったら,もう教えるべきレパートリーがなくなったらしい。竹山自身によると,入門してわずか3ヵ月ほどで,彼の技量は戸田を追い抜いたという。はたまた,教える側も貧しいボサマであるから,そうそう長くは面倒も見れなかったということもあるのだろう。そして16歳(一説に17歳とあるが,それは数え年齢によるもの)で,ボサマとして門付のひとり旅を始める。命尽きるまで続く,長く厳しい漂泊の旅だ。 デビューへの餞(はなむけ)の言葉は“おめぇ,ボサマになったのかぁ!”。この罵声とともに,近在の少年たちが虐めにかかる。ゆえに竹山は地元での門付は避け,北海道,秋田,岩手などを漂泊して回る。夏はまだ良い。雪降り積もる冬の辛苦は想像するに痛ましい。盲目の少年がひとり,杖を突きながら,背中に三味線を背負い,雪の大地に門付すべき民家の戸を探して歩き続ける。ひたすらに歩き続ける。ボサマは止まると死ぬのだ。好きで門付をするわけがない。地位や名声のためでもない。弾かねば死ぬ,ただそれだけの絶望的とも言える理由で,盲目の少年は1音に1音を重ねていく。 弦を切ってはならない。毎日歩き回り,かつ長時間の演奏を続けねばならない。門外から屋内の家人の耳に,確実に達する音を発しなければならない。これらの条件が,竹山独特の非常に合理化された奏法を育んだ。力を抜いたピッキングでありながら,高次倍音を豊かに含み遠達性に優れた音色。そしてその音色が目指そうとした彼方には,忘れ得ぬ梅田豊月の音があったに違いない。ここに紹介しておきたい竹山の重要な言葉がある。 “三味線で苦労するのは音色だ。音色にもいい悪いがある。どうすればいい音が出るかということは,やはり勉強だ。これだけは習ったってできるものではない。手は習うことができてもいい音を出すのはその人の力と,考えと仕事で研究しなければならないことだ”(『自伝・津軽三味線ひとり旅』新書館 1975刊)。 まず,“勉強”,“研究”という単語が使われていることに刮目すべし。この実践があったればこそ,大演奏家が成った。言葉だけのポーズではない。齢80を超えた最晩年においてすら,彼はより新たな表現の実現に向け,三味線のブリッジを自作改良し続け,加えてまったく新しい小刀型のバチを考案して試用している。数々のハードウェア改良だけではない。竹山の死後,追悼番組制作のためNHKのカメラが彼の家の中を映し出した。そこには大量のレコード・ライブラリーがあった。民謡はもちろんだが,ありとあらゆるジャンルのもの,クラシック,ジャズ,ポップス,ロックなどのアルバムが溢れていた。楽器も溢れる。三味線,尺八などの邦楽器だけではない。西洋楽器のバイオリン,インド古典楽器のシタール,そしてなんとアナログ・シンセサイザーまでもがあり,それらは単なるコレクションではなく,実際に愛奏されていたという。彼はそれらの異ジャンルの楽器による表現方法を柔軟かつ積極的に吸収し,自らの三味線アプローチのアップデートを激しく続けていたのだ。まさしく死ぬまで前進し続けた。この保守の対極に生きたことにおいて,竹山は死ぬまでボサマであり続けたと言えよう。 竹山のこの言葉は大意として“師匠から教授されるのはフィジカルな運指法(練習の仕方)にすぎず,音そのものについては各人が自発的に求め,発見すべきものだ”となる。“伝承”の否定。これは伝統芸の骨子を破壊し,その対極に屹立すべしという決意として,私には響く。頂に雪を輝かせ,大きく静かに美しくそびえる岩木山を,人は竹山に例える。しかしそれは,大御所,パイオニア,津軽の魂,といった安易なイメージの投影だ。知るべし。岩木山は,実は多数の爆発火口を持ち,有史以来何度も噴火を続ける成層火山であることを。その一見穏やかな姿の内には,ほとばしるマグマがあるのだ。己の姿さえ破壊し,垂直に炎を昇天させるエネルギー。この実態を踏まえた上で,例えるべきと私は思う。さらに,竹山について稿を進めるうちに,今日巷に溢れる,三味線という楽器そのものの特殊性や,ロマンティック(ある意味オカルティック)な意味づけを自分のアイデンティティにして頼り,“伝統”,“流派”,“家元”などの権威の内側で安住して淀んでいく多くの奏者に,私はボサマへの精神的回帰を訴えたくなる衝動に駆られた。 さて,少年はいつしか老齢にさしかかり,時代は1960年代となる。竹山に転機が訪れる。
すべての“芸術”は芸術家によって“創造”されるが,それを“発見”するものがいなければ,この地上に存在しなかったことと同義になる。ゴッホの不幸は彼個人のみならず,ゴッホ絵画が創造されていたにも関わらず“存在”しなかった時代を過ごしてしまった同時代人にもある。我々が現在ゴッホ絵画の存在を当然と享受しているのは喜ぶべきことなのだ。柳宗悦は“バケモノガデタ”との電報で棟方志巧の発見を世に告げた。ブライアン・エプスタインが“My Bonnie”のシングル盤を手に取らなければ,我々は今日ビートルズを耳にすることはなかった。そして高橋竹山。斎藤幸二の発見がなければ竹山はもとより,我々は未だに“ボサマの三味線”,“乞食芸”としてしか,三味線独奏を認識し得ず,“津軽三味線”は存在していなかったかもしれぬ。 当時弱冠22歳。斎藤幸二はキング・レコードの若きディレクターだった。偶然手にした民謡歌手,成田雲竹のレコード。彼は釘づけになった。歌にではない。伴奏をしている三味線の音色に心を突き刺されたのだ。バイオリン,ピアノなどのマエストロの演奏に比ぶるべき深く多彩な演奏表現。彼が知るいかなる三味線ともその音色は違っていた(斎藤の父は義太夫の三味線奏者であり,もちろん津軽の白川軍八郎,木田林松栄らも聴いていた)。 誰だ! 高橋竹山……誰だ? 歌のない,この三味線だけの独奏を聴きたい! 独奏のレコードを作りたい !! この純情が芸術に存在を与える。彼は自社の企画会議に,高橋竹山による三味線独奏アルバムの企画を出す。しかし結果,猛烈な反対で否定される。当然だったのかもしれない。当時,三味線は民謡の伴奏楽器であり,三味線独奏というものは“乞食芸”だったのだ。ボサマのアルバムなど,いったい誰が金を出して欲しがるというのだ。なぜそんなものを作るために,高額なスタジオ代,プレス費用,ジャケット印刷費用を会社が出さねばならぬのだ。無謀,非常識。 しかし真実に“新しい”とは既存の価値観(常識)の外にある,という意味において“非常識”であり,その実現は常に保守主義の対極においてアクティブに“無謀”なのだ。芸術に存在を与える時,この“無謀”,“非常識”という言葉は肯定的に動作する。自らの純情に突き動かされ,斎藤は実行者となった。竹山に会う! 1963年2月上旬,会社を休み,私費で青森行き夜行寝台に飛び乗った。“無謀”が輝く。 教えられた小湊の住所へ行ってはみたが,そこはリンゴ畑だった。寒中厳しい中,家を探すが見つからない。“小屋のような……”とは聞いていたが,それでも家らしきものが見つからない。しかして,まさかここに人が住んでいようとは,というような粗末な建物,“最初ね,農器具を入れておくところかと思ったんですよ”と述懐せしめるようなところに,その人は在った。初老の創造者と若き発見者が,その芸術に存在を与えんとして直結する。 史上初,前例のない“三味線独奏アルバム”の制作という非常識の実現を,斎藤は竹山に熱く訴える。何と,その純情に突き刺されるように,竹山は即時に承諾した。そして未だボサマの三味線を聴いたことのない斎藤に,“こんなこともできる”,“こんなこともやりたい”と三味線を手に取り,たったひとりのオーディエンスのためのライブを始めた。いろり端での至近距離の弦音。轟きに轟きを重ねる。1時間や2時間ではない。驚愕せよ,この轟きは2日間にも及んだのだ。弾きまくる,そして聴きまくる。寒撥(かんばち)が熱を帯びる。あぁ,轟々竹山。 斎藤は雪解けを待っての,東京でのレコーディングの実現を約束した。 会社はすでに反対しているのだ。決意。22歳の純情は,己の血すら流せと,斎藤自身を貫く。借金。そう,彼は金を借りて自費で高額な制作費を都合した。竹山には自分の給料の3倍のギャラまで用意した。この美しき“無謀”の輝きに,私は落涙を禁じ得ない。 4月22日,ついに竹山が上野駅に降り立つ。翌23日にリハ。24,25日の2日間,10時から18時までぶっとおしで,全14曲の録音が実行された。その轟きを収めるために斎藤は4本のマイクをミックスし,それをあえてモノラルにした。拡散(ステレオ)ではなく,収束し突き刺さる。こうして乞食芸のアルバム,ボサマの三味線のアルバムにして,史上初の三味線独奏アルバムが誕生した。このアルバムにつけられたタイトルこそが『津軽三味線』。その弦音とともに,この言葉(タイトル)が世界に轟き始める。もう乞食,ボサマと蔑まさせない。リリースは1963年10月。ひとつの芸術に存在が与えられた。
ついに“破壊せよ”との唸りを伴って轟音が、ボサマの見る暗黒世界から、東京オリンピック、新幹線開通と浮かれる1963年の昭和元禄に放たれた。史上初の三味線独奏アルバム、“津軽三味線”。15歳でボサマ戸田重次郎から“よされ”と“じょんがら”を習った彼が、そのファーストアルバムの1曲目にもってきたのは、修行時以来数十年の改編を加え続け、ノスタルジーなどという幻想の反対側にナマナマしく息づく“津軽よされ(前囃し)”。これは標本のような動かぬ音の“伝統音楽”ではない。リアリティーに生きる“現代の音楽”なのだ。重い低音のグリッサンドに導かれ、力強いグルーブが支配する3分29秒。これでもかというほどの緩急強弱のダイナミズム。完全にコントロールされたピッキング・ノイズに浮かぶ表情のエロティシズム。後半部の眩く、そして微細乱反射するレーザー光線のような高速高音弦に、タナトスの香りが漂う。その最晩年の演奏まで放射され続ける、闇と光、タナトスとエロス、二極に引き裂かれるような感覚の“竹山世界”は、この1曲中に既に現れていた。“津軽よされ(前囃し)”、なんとクールなのか! 全14曲、41分。三味線の音しか鳴る事のない音世界の創出。しかし、このアルバムは竹山の到達点ではない。止まると死ぬボサマにとっての、日常の一歩であり、かつ命懸けの一歩だ。同時に音楽界においては革新の一歩となった。ファースト・プレスは2千枚弱作られた。民謡なら3、4千枚、歌謡曲でも1万枚でヒットアルバムとされていた時代に、このアルバムは再プレスを重ね、2年で7万枚(!)の売り上げを記録した。見る見る世間の対応が手のひらを返す。竹山をとりまく世間が変質していく。“津軽三味線”という言葉が流通し始め、やがてブームとなった。しかし竹山は今や門付こそしないものの、その精神の本質においてボサマであり続けた。表現の歩みは止まるどころか、増々加速していく。文字通り、死ぬまで止まる事はなかった。 まだブーム直前の1964年4月、塩釜公民館、今や伝説として語られる竹山のソロ・デビュー演奏会がおこなわれる。全国の勤労者に良質の音楽と接する機会をと活動する組織、労音。その仙台労音の事務局長、三浦博はリリースされたばかりのアルバム“津軽三味線”を、スタッフ会議で皆に聴かせ賛同を得て企画を立案した。“にほんのうた みちのくのうた”という民謡例会に、竹山の三味線独奏を組み込む事になったのだ。まだ民謡といえばボーカルが主体という認識で、インストものをそこに絡めるのは冒険とも言えた。従って竹山には成田雲竹の伴奏者として出演してもらい、僅かな時間を特別に独奏へ当てようという事になった。休憩後の第2部冒頭がその時間に予定された。他に民謡歌手が2名参加している。 当日、会場を埋め尽くす若いオーディエンス。“津軽三味線独奏”と刷り込まれたプログラム。世話になった成田への遠慮もあったのか、竹山は初の独奏披露に気乗りせず消極的になったという。それを三浦が説得。そしてその時が来た。「1分15秒ばかりご辛抱願います」。気弱ともいえる非常に謙虚なMCに続き、やおら3本の弦が轟く。そう、“津軽よされ(前囃し)”! 爆発。当時の鑑賞マナーはクラシックのそれに准じ、演奏中の拍手はやってはならぬモノだった。しかし、この轟きに聴衆は掻きむしられるように奮い立ったのだろう。1曲の間にマナー無視の大拍手が、それも4回も沸き起こった。興奮。竹山もインプロヴァイズを加え、アルバム収録時間を大幅に超える5分5秒の演奏をおこなった。沸騰。大歓声の祝福の中、ステージには会心の笑みを漏らす音楽家・高橋竹山の姿があった。見よ、“乞食芸”、“ボサマの三味線”と蔑んできた世界の認識を、完膚無きまでに破壊した瞬間だ。以後、竹山は毎年、各地の労音に招かれて独奏をおこなう。 さて、竹山の代表曲に“即興曲岩木”というのがある。毎ライブで最後に演奏され、20ー30分超に及ぶ組曲風の壮大な即興曲だ。その死によって活動停止になるまで、2千回以上は演奏されたという。また何度もレコーディングされ、いくつものアルバムにその時点においての“即興曲岩木”が残されている。毎回変化、成長し、永遠に未完といえる曲。完成とは、その後の可能性は閉ざされたという意味なのだ。昨年、昨月、昨週、昨日どころか、一瞬前の己にすら拘泥する事無く、瞬間瞬間にあらゆるアイデンティティーの規定へ破壊を加え、火の鳥の如く新生を連続させた。竹山のテーマ曲ともいえる位置にある。実はこの曲は2度、曲名を変えている。以前は“津軽総合独奏曲”という曲名だった。そして、その前の名、そう、それこそは“津軽よされ(前囃し)”。超クール!!
世界はようやく竹山を発見した。メディアが寄ってたかる。人が動く。金が動く。三味線ブーム到来とマスコミが囃し立てる。フォロアーと言えば聞こえが良いが、使用楽器と演奏形態が同じだけの便乗者、これが続々と増えていく。そして、竹山を「先生、先生」と祭り上げる者が増えていった。世界はついこの間まで「ホイド!」、「メグ!」と蔑んでいたのに……。手の平を返すとはこの事か。しかし、竹山はそうした社会の対応に対し、大御所然、パイオニア然とした態度に変じて安住することはなかった。社会が竹山を如何に記号化し、時代のアイコンに仕立てようとも、彼が“ボサマ”の本質を揺るがす事はなかった。ボサマの本質、それは集落共同体意識の外側で、何の権威にも頼る事なく自立し、止まると死ぬという決死の持続活動、はぐれ狼の日常。精神的な例え話ではない。全国組織である労音のネットワークを軸に、竹山は精力的に全国行脚を始める。“ツアー”という名の“門付け”。その数、年間150から200公演に及ぶ。疾走。そして、あの“ジァンジァン”。 渋谷に在って演奏、演劇、演芸などの多岐にわたり、それぞれのジャンルの古典からポップ、前衛まで幅広い芸術表現を発信した僅か100席ちょっとの小劇場。彼がここに初めて立ったのは1973年12月。1975年2月までは毎月出演、以後、1995年3月までは隔月。実に22年間、竹山は青森から電車に乗って渋谷へ通った。ボサマ不倒不屈。観客にとっても演奏家にとっても、大ホールでは味わえない至近距離での対峙。毎回、満員で立ち見が出る、竹山はそうした客をステージに引き上げ、自分を取り囲むように座らせる。そう、手を伸ばせば届く。呼吸音さえ聞こえる距離。緊張感、臨場感、これこそが体験。竹山が全身全霊で客を感じている、見えぬ眼で客を見据える。客も気をそらす事はできない。この痛い程の圧倒的現実感の快感を求め、晩年の数年間、私はほぼ毎回、竹山の真正面、膝元に座っていた。撥(バチ)から私の耳は1メートルと離れていなかったろう。ここではマイクが拾ったPAの音よりも、生の音が耳を貫く。加えてマイクが拾う事のない音、竹山のうなり声が聴こえるのだ。演奏が激しくなると、彼のうなりは……、狼、……私には雪原に孤独に屹立し、獲物を見据える老狼のそれに聴こえた。曲間のMCでは冗談も交え、自らも楽しそうに笑う竹山、しかしひと度弦がかき鳴らされると、客の顔から笑顔は消える。老狼が何に牙を剥いているのかを無意識にも感じるのだ。大御所と祭り上げられたからといって、老狼は古傷を忘れた訳ではない。毎回のMCで彼は語り続ける。如何に酷い事をされてきたか、そしてそうした人々を今でもありありと覚え、憎んでいると。今も思い出すと腹がたち、許す事ができないと。社会に記号化されて丸め込まれてしまう訳などないのだ。彼に本音建前など通用しない。生きるか死ぬかというこれ以上ないリアリティーが日常だった男。嘘とは無縁の命なのだ。私は今も覚えている。ジァンジァンにおけるラストライブでのMC。『私は自分で見たことしか喋らない』。盲目の彼が言ったのだから、客の中にはウケて笑う者もいたが、そういう者こそハラワタの底まで竹山に覗き込まれているのに気付かない。 ジァンジァンでの演奏は毎回1時間半程に及んだ。合奏ならまだしも、全くの独奏、それもかなりの激しさ。肉体的にも精神的にもかなりの負担。しかし竹山は80歳を超えた高齢ながら、間に休憩を入れて2部構成にする事はなかった。「客を待たせて楽屋で一服なんて申し訳ない」などと言ってはいたが、その実、さらさら休憩したいなどと思わなかったに違いないのだ。ぶっ通して演りたいと、純粋に思っていただけだろう。ボサマは止まらないのだから。 ライブの最後はいつも大作“即興曲・岩木”。これでもかとグルーブに拍車がかかり、指板上でのピッキング、撥を逆さにして台尻のエッジ部分によるトレモロ・スクラッチ、チョッパー、ハーモニクス、ポリリズムなど、非常識なまでに拡大された演奏表現。これらが、その青白い眼をカッと見開き、たて続けるうなり声とともに、非常識なまでのハイテンションで、2、30分間繰り広げられる。老狼の牙が輝きを増す。「破壊せよ!」と竹山の眼が輝く。疾走し、最高潮で岩木山が火柱を上げる。爆発的に突き抜けてFin.。まったくクソジジイだ! と私は拍手する。 さぁ、こんな体験が、なんと1,500円(最晩年の数回は2,000円)ポッキリだ! ドリンク代の追加請求なんて無いぞ。大昔の話じゃない。90年代の話だ。数年前の事だ。天下の大御所にしてパイオニア・高橋竹山先生のライブだぞ! さてと、プロもアマチュアもひっくるめて、とにかく有料でライブを演っているアナタ、アナタはいくら客から取っているんだ? ……ほら、竹山の牙の輝きがチラリと見えただろう?
蒼白い眼を見開き、唸り声を上げ、老狼は孤独に雪原を疾走し続けた。その脚が止まったのは1997年2月5日午前3時45分、竹山享年87歳。 その2年前、弘前大学病院に3か月入院、喉頭癌だった。誰もがその演奏家としての死を思った。しかし、老狼は唸りを止める事はなかった。喉に包帯を巻き、スタッフに脇を支えさせて、ステージへ登る。ライブ。近くの“夜越山(よごしやま)温泉”を会場に、毎月2回の演奏会をおこなった。しかも、入場無料。 かつて少年は、生きる為に、その日の米を得る為に、ボサマとなって門付演奏をおこなった。そしてまさにその命枯れんとする時、“止まると死ぬ”という宿命のボサマは、“止まらないぞ”の一心の執着でもって、我が身を支え、棹を支えた。入場無料、一握りの米を得る為ではない、社会への還元などと戯けた幻想であろうはずも無い。“弾きたい”、その純情自体が動機なのだ。死の前年の4月、この定例演奏会で竹山は聴衆に告げた。『喉頭癌だ。しかし死ぬのは何も恐くない。死ぬまで演り続ける。』 6月、喉が大きく腫れ上がり、呼吸すら困難になる。それでも三味線を持ってステージへ登る。1996年12月21日、ついに大量の吐血。スタッフが今夜の演奏会は無理だろうと電話連絡をしていると、傍らで老狼は首を振る。『弾く!』。……壮絶とはこういう事をいうのだ。ついに歩く事もできない。車いすで会場へ。スタッフに体を抱えさせてステージに現れる。肉体は死に瀕するとも、その魂はより一層に輝く。もはや棹すら支えられない。棹の重みに耐えかねて、その左手が下がっていくのだ。老狼はスタッフにヘッド部を支えさせながら、それでも演奏を続ける。この期に及んでもなお、新たな領域へ彼は一歩進もうとする。独自に新開発した、ナイフ型の撥(ばち)を取り出し、試用する。必殺のスクラッチで弦を擦り、そして唸る。ボサマは止まると死ぬのだ。物理的音量はか細くなっていただろうが、その壮絶な魂の轟きは天地を共鳴させる。血の音。崩壊する肉体の彼岸から、彼は轟きに轟きを重ねる。嗚呼、轟々竹山。見事なる絶奏。 竹山の死後、追悼番組制作の為、NHKのカメラが竹山宅に入った。そこには3千枚を超えるレコード……、民謡はもちろん、クラシックから現代音楽、ジャズ、ロック、ポップスなどあらゆるジャンルの音源が集められていた。コレクターではない。彼はそれらを聴き漁っていたのだ。楽器も多数あった。三味線、尺八などの邦楽器だけではない。クラシックのバイオリン、インドのシタール、そしてなんとアナログ・シンセサイザーまでもがあった。彼はそれらを練習し愛奏したという。およそこの世に存在するすべての音楽表現を体得し、自らの表現の拡大深化を実践していたのだ。 新たな可能性への貪欲な姿勢はソフトウェア面だけではない。前述の死の直前のナイフ型撥もそうだが、三味線そのものへの改良は留まる事が無かった。『眼が見えないのだから、美観はどうでも良い』と、演奏性と音質のみを追求し、ボディ、ネックはもちろん、ブリッジ、仕込み角度、弦など、躊躇無い伝統破壊が楽器構造においても加えられ続けた。弟子によれば、晩年の5年間だけでも20か所の改良が施されたという。すべての意味において彼は保守の対極にいた。 彼の死後であるのは確かだが、正確にいつ私が“轟々竹山”という曲を弾き始めたのか、記憶が無い。長くは1時間以上に及ぶこの曲は、竹山からの影響を臆面もなく晒したものだ。しかし竹山の様に演奏する事とは、三味線を使ったり、彼のフレーズを真似たりというもの、すなわち継承、模倣であってはならない。一瞬前の自己すら破壊し、未踏の表現を実践する事だ。“即興曲・岩木”が永遠に完成を拒否した曲であったように、“轟々竹山”も未完だ。日本人の美徳に“謙虚”というのがある。『いやぁ、私なんてマダマダです。いつか竹山先生を目指して、精進しております』などという態度だ。私はこの取り繕った社会的馴れ合いが、最も竹山から遠いものだと思う。竹山の死以降から、“轟々竹山”は始まっているのだ。竹山はスタート地点であって、到達目標では無い。故に、私は既に高橋竹山を超えている。超えていて当然で、超えていなければ道を切り開いた竹山に失礼なのだ。私が竹山から得た事、それは狼である事だ。牙をむき、唸りをあげてやろう。尊大な態度と誤解するなら、するがいい。それでも、私は竹山を超えたのだ。 <ギターマガジン誌 2002年10月号から2003年5月号掲載の“禁断の華園・第72〜79回”への寄稿文> |