Words Vol.27
 朗読作品 ・Shi Vol.6 “女”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.26
 朗読作品 ・Shi Vol.5 “狼”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.25
 朗読作品 ・Shi Vol.4 “睫毛”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.24
 朗読作品 ・Shi Vol.3 “骨”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.23
 朗読作品 ・Shi Vol.2 “おまえ”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.22
 朗読作品 ・Shi Vol.1“真っ赤な桜よ”

  • 自らの詩を朗読。

Words Vol.21
 制限からの脱却
 ---無限の音世界を求めて---

  • 2003年1月1日発行OPUS誌 No.2 掲載
    インタビュー、
    構成 金大偉高橋克行
    2002年4月12日 於:都内某所

Words Vol.20
 或る華道家へ

  • 2009年12月4日 書き下ろし

Words Vol.19
 Bass Labのこと

  • ギターマガジン誌 2006年10月号から2007年1月号掲載の"禁断の華園・第120~123回"への寄稿文に、
    2009年4月加筆

Words Vol.18
 ポジティブな命の疾走と発光

  • 2006年7月、アルバム"Neo Tokyo!"
    の添付ブックレットへの寄稿文

Words Vol.17
 システムのために ....

  • 2008年2月26日書き下ろし

Words Vol.16
 生殖としての芸術

  • ギターマガジン誌 2003年11月号掲載の
    “禁断の華園・第85回”への寄稿文

Words Vol.15
 原色の都

  • ギターマガジン誌 2000年9月号掲載の
    “禁断の華園・第47回”への寄稿文

Words Vol.14
 100年後を想う

  • ギターマガジン誌 2003年8月号掲載の
    “禁断の華園・第82回”への寄稿文

Words Vol.13
 楽器の王様

  • ギターマガジン誌 1999年6月号掲載の
    “禁断の華園・第32回”への寄稿文

Words Vol.12
 RIAA Killed the Internet Star

  • ギターマガジン誌 2002年9月号掲載の
    “禁断の華園・第71回”への寄稿文

Words Vol.11
 轟々竹山

  • ギターマガジン誌 2002年10月号から2003年5月号掲載の
    “禁断の華園・第72〜79回”への寄稿文

Words Vol.10
 躍進の匂い

  • 岡山市タウン誌“Sheets of Music Vol.14(2002年1月発行)”
    への特別寄稿文

Words Vol.9
 21世紀に再生するカフェ文化

  • ギターマガジン誌 2003年9月号から
    2003年10月号掲載の
    “禁断の華園・第83〜84回”への寄稿文

Words Vol.8
 評論家について

  • ギターマガジン誌 2000年1月号掲載の
    “禁断の華園・第39回”への寄稿文

Words Vol.7
 鮮血の大輪

  • ギターマガジン誌 2002年8月号掲載の
    “禁断の華園・第70回”への寄稿文

Words Vol.6
 ライブハウスの入場料が高いとは思わないか?

  • ギターマガジン誌 2002年7月号掲載の
    “禁断の華園・第69回”への寄稿文

Words Vol.5
 聴覚特化体験

  • ギターマガジン誌 2002年1月号から
    2002年5月号掲載の
    “禁断の華園・第63〜67回”への寄稿文

Words Vol.4
 ピンク富士山

  • ギターマガジン誌 2002年6月号掲載の
    “禁断の華園・第68回”への寄稿文

Words Vol.3
 再考・市民のために…

  • ギターマガジン誌 2001年6月号から
    2001年11月号掲載の
    “禁断の華園・第56〜61回”への寄稿文 

Words Vol.2
 『ひかりごけ』の時代

  • ギターマガジン誌 2001年5月号掲載の
    “禁断の華園・第55回”への寄稿文

Words Vol.1
 "Words of a Dwarf"-ish quotes

  • ギターマガジン誌 2003年12月号から2004年4月号掲載の
    “禁断の華園・第86〜90回”への寄稿文

評論家について

 航空評論家という職業がある。彼らは飛行機事故などがあった時、いち早く報道番組でその事故の推定される原因や、死傷者数など事故規模の予想を、専門的知識の無い視聴者に解り易い言葉で解説してくれる。

 我々は当たり前のようにブラウン管を見ているが、この“解り易く”というのが重要だ。操縦・操作法については言うまでもなく、各機種ごとのクセや特徴、各空路や空港についての知識、過去のあらゆる航空事故についての知識、特殊な航空病などの航空医学の知識、等々……。門外漢の私が思いつくだけでも、これほど厖大かつ多岐にわたる知識が最低限必要で、加えて洞察力というか、経験によって育まれたカン、才能というべき生来のカンもまた必要になる。それらの知識とカンで、当面の事故を手元の僅かなデータから分析・推測し、その後、視聴者に対して専門用語を排した、解り易い日常の言葉で解説していく……。言うまでもなく、努力と才能が必要なスペシャリストだ。単純に飛行機が好きで詳しいという程度では勤まらない。読者諸氏においても、これについて異論はないだろう。

 数ある各種評論家の中で最も有名なのは、故・淀川長治氏だろう。彼は世界でも間違いなく最多の映画を見た人間の一人であるし、その知識は映画芸術においての財産と言って過言ではない。その氏の口調は近所のオジイチャンのもののように平易で親しみ易く、しかし言外から醸し出される確かなデータの裏付けに、映画マニア、初心者問わず、フムフムと頷いてしまう。決して『サヨナラサヨナラ』のキメゼリフだけで長年第一線にいたわけではなく、ここにも努力と才能がある。当然過ぎることで、これについても異論はないだろう。

 では、音楽評論についてはどうか?

 毎月大量のCDがリリースされ、各音楽誌でCD評として紹介されている。航空評論家で例えて言うならば、当面の事故がCD盤に記録されているデータだ。そこで何がどのように表現されているのか、様々な知識を元に分析し、表現者の意図を推測して、解り易い言葉に、いわば翻訳するのがCD評となる。しかし、どれほどのCD評がそれを誠実におこなっているのだろうか? 具体的にどの評論家が、というのではなく、最近の、特にロック、ジャズの分野での評論総体での傾向に、私は大きな疑問を抱いている。航空評論家の仕事のクオリティと同次元で語られ得るものが、あまりに少なくはないか。

 まず、評論以前の分析ができていない。いや、分析するどころか理解するための基礎的な知識すら欠落しているのでは、とさえ思える。『なぜ、このリズムが新鮮に聴こえるのか』とか、『なぜ、あの和声がドンクサくなってしまったのか』とか、『このギターの音質がいかに斬新なものであるか』とか、そういった基本項を明らかにするだけでも、和声学や楽器、エフェクターなどの最新知識が必要だ。

 演奏家のような演奏技術も、作曲家のような独創的創作能力も必要ないが、評論家ならば演奏家や作曲家以上のグローバルな音楽的知識は最低限持っていなければ務まらないはずだと私は思う。果たしてこれは間違った考えなのか?

 そうした基本項の分析を経て、才能というべき洞察力をもって、対象となる表現者がそのCDに込めた意図を、己自身の言語というメディアに翻訳し直して顕在化させる。そして表現者の意図は類型の他の作品と比較してどの位置に置かれるのか、彼の目論みはどの程度成功し、どこが如何なる理由で注目されるべき作品なのかを、和声や楽器などについての専門知識の全く無い一般リスナーに解り易く説明すべきではないのか?

 ところが多くのCD評は、単なる音楽愛好家の感想文に終わっている。

 飛行機事故の時に、もしも航空評論家がテレビで『怖い事故です。いっぱい死んでいるでしょう。』という台詞を持ち時間中繰り返していたら、それこそテレビ局に苦情の電話が殺到するだろうし、彼自身、職を失うに違いない。

 感想を言ってもいいのは、金を払ってCDを買ったリスナーだ。出版社から、つまりは読者から金をもらってCD評をおこなう人間は、読者の出費に釣り合う情報を提供すべきだ。

 また、ジャズやクラシックの評論で、やたら難解なものを見ることがある。自らの知識の豊富なところをアピールしたいというエゴの結果を、私は金を払って読みたいとは思わない。お願いだから、評論や解説に注釈をつけて“解説の解説”をするのはやめてくれ。

 音楽好きなら誰でも感想文は書ける。しかし評論・解説をするとなると、先の航空評論家や故・淀川長治氏の例と同様、努力と才能が必要なはずだ。このままでは『自分は音楽好きだが、とてもプロの音楽家になれるような努力と才能に無縁だ。雑誌に載っているような感想文ならできそうだから、とりあえず評論家にでもなって、音楽業界に身を置こうかなあ……』などという悪しきフォロワーを、現状は安易に産みつつある気がする。

 また、60年代以降の新派きどりの表現者から、しばしば発せられる『すべての評論家はクソだ』というポーズじみたニヒリズムで、芸術家のストイックさを演出するのはナンセンスだ。評論家は重要なのだ。

 いつの時代にも、あらゆる分野において、プロフェッショナルな評論家が必要なのだ。私は『評論家がアマチュアな分野は、表現者側もアマチュア傾向が強くなる』という法則を発見したのだが、果たして間違っているのだろうか?

<ギターマガジン誌 2000年1月号掲載の“禁断の華園・第39回”への寄稿文>